耳をやわらかく打つやさしい歌。
甘い声はあたたかく胸を満たしていく。
愛しいという想いがその声に、そのフレーズに乗って溢れるほどに伝わるから、涙が零れているのにも気づかないくらいうれしくて。
抱きしめても、口付けても、きっとその想いに報いるだけの『ありがとう』を伝えることなんてできそうにないから、今、この歌をしっかりと胸に刻み込んで、きっと足りないかもしれないけど、それでも抱きしめて、口付けて、そして、ずっと…そばにいさせてほしい。
リカは抱きしめあって重なり合う肌の温かさと歌声のあたたかさに目を閉じた。
■ ■
高い空を駆ける月が部屋を藍色に染める。
ベッドの上に二人。
いつものように体を重ねて、ぬくもりを伝え合う。
なんとなく腰の辺りにかかったままの布団を引き上げもせず、リカはまだ甘い余韻の中でゆらゆらと漂って火照るミキの体を両腕で強く抱きしめて目を閉じていた。それこそ、お気に入りのぬいぐるみを抱くように、それとも、どこかすがりつくように。
ミキは目を開けると、そっと自分の上に重なったままのリカの背中に手を回した。
指を滑らすようにやわらかなリカの肌に触れると、リカが目を開けた。
「おはよ」
「…おはよ」
まだ夜だってば。
ちょっと恥ずかしくって、ぶっきらぼうな口調で返すと、リカはくすっと笑って頬に口付けた。
それだけでどこか仏頂面だったミキの顔がふわっと綻ぶ。 ふふ。かーわいい。
リカは唇をミキの唇にふわりと重ねると、また目を閉じてしっかりと抱きなおした。
背中に回したミキの指がリカの髪をいじり始める。
「今日はあまえんぼうだね」
「ミキちゃんが?」
「リカちゃんが」
「そうかな?」
「そうだって」
ほんの少し顔を傾ければミキの首筋に顔をうずめているリカ。囁くように話すたびに動く唇が微かに首筋をくすぐる。
「いいんだけどね。ミキとしては」
むしろ大歓迎。
「なら、いいじゃん」
リカがそう言って笑うと、ミキは「そうだね」と返して、髪をいじっていた指先を背中に戻してぎゅっと抱きしめた。
しかたないのかな…。
ミキはリカの頬に掠めるように口づけた。
ぼんやりと見上げる天井。
月の明かりがうっすらと部屋の輪郭を描き出して、微かに木目の流れが見える。
暖房も消して冴え冴えとした部屋。
抱きしめている背中は熱を奪いとられてひんやりとしている。
「寒くない?」
ううん。と首をふって答えるリカ。
「カゼ引くって」
「ミキちゃん、寒い?」
リカが少しだけ体を起こすと、ミキは首を横に振った。
「そうでもないけど…リカちゃん、背中冷たい」
「んー。そう?」
「うん。ミキは…離れちゃったから今寒いけど…」
二人の間にできた隙間にすばやく入り込んだ冷気が温めあったぬくもりをさっと奪っていく。
「うん」
リカは少し申し訳なさそうに笑って、手を後ろに伸ばして布団を少しだけ引き上げた。
「ごめんね。本当は…寒かったよね」
そう言って、肩の辺りまで持ってくると、またすぐにぎゅっとミキを抱きしめた。
ゆっくりと布団の中が二人の体温で温まっていく。
リカがまたミキの首筋に顔をうずめると、ミキもまたリカの後ろ髪を指先でいじり始めた。
カチ、カチ。
秒針が淡々と時を刻む。
夜が明ければ、戦場に立つ二人。
ミキは気だるい体に空気を送り込むようにゆっくりと吸い込んだ息を吐き出した。
そして、ぽんぽんとリカの背中を叩く。
「ついてないね」
「…ね」
せっかくの誕生日。
迎えてくれるのは銃声と生臭い血とニヤリと微笑む死の気配。
リカは抱きしめている腕に力を込めた。
ぽんぽんと背中を叩くのをやめて、ほんの少しだけ顔を傾けて鼻先をリカの肩口にうずめるミキ。
トクトクと緩やかな鼓動を直接肌で感じてぬくもりに満たされているのに、どうして心の奥底をひたひたと這い回る不安と恐怖。
あるのかな?
このぬくもりも。
この鼓動も。
生きていれば、いつかは消える。
それでも、それがたとえば明日とか、明後日とか…。
いつだって死神はのんきなもので、人間達の醜いゲームを見てけたけたと笑っている。
体を蜂の巣にされてあちこちから血を流し、背中にぴたりとくっついた恐怖と目の前の分裂した屍に発狂し、焼け付くような痛みに悶えて転げ回っている、そんな人間達を笑っている。
どんな理由だろうが、何を思おうが、死の前にはみんな同じ。
苦しまずに死ぬことができたなら、きっと戦場では幸せなのかもしれない。
そんな錯覚。
今はまだ綺麗な体も、たぶん偶然できっと奇跡に違いない。
当然のようにまかり通る狂気と有無を言わさない暴力。
戦場は、そんな場所。
トクトク…。
二つの鼓動が一つに重なる。
ぬくもりはゆっくりと溶け合って、リカとミキを包み込む。
リカが少しだけ顔を上げると、ミキは不安げにきゅっと結んだ唇にそっと唇を押し当てて微笑んだ。
「帰ってこよう」
「…うん」
「ってかさぁ…帰ってくるに決まってんじゃん」
「ミキちゃん?」
不思議そうに見つめるリカの額にコツンと額をあわせて、ミキはいつものようにニカッと笑った。
「だってさ、乙女は無敵なんだから」
へへへって笑う顔がなんだか無邪気で、でもそれが心強くってリカもつられるように笑う。
額をあわせたままクスクスと笑って、体を寄せてもう一度抱きしめ直した。
小さな笑い声が薄闇の静かな部屋の中に陽気に響く。
不安も恐怖もなにもかも打ち消すように。
ぬくもりに包まれている今を抱きしめるように。
カチ、カチ…。
それでも時間は流れていく。
目を閉じてミキのぬくもりに浸るリカ。
ミキはまた小さな背中に流れるリカの後ろ髪をいじり始めた。
「リカちゃん。何ほしい? プレゼント」
「プレゼント…」
んーと考え込むと、リカはゆっくりと目を開けて、ふと何か遠くを見るような目をした。
「そうだなぁ…。なんでもいい…かな」
みんながいてくれれば。
「じゃあ…ミキちゃんだったら、何ほしい?」
「え…。んー…」
肉はありきたりだし、いくら配給が厳しくなったって言ったって食べれないこともないし…。
「なんでもいい…かも」
みんながいれば。
「ほら」
「ね」
小さく微笑んで、ミキは少し困ったように笑った。
「でも、今はリカちゃんに聞いてるの。ない? 他には」
「他?」
そうだなぁ…。そう呟くと、リカはずっとミキの背中に回していた右腕をゆっくりと引き上げて頭を抱くと、さらさらの髪をなんとなく撫でる。
「ねぇ。ない? ミキ、何でもするよ?」
「んー」
なんとなく天井を見上げて考えるリカ。
「なんでもしてくれるの?」
「するよ? 決まってんじゃん」
「んー。じゃぁ…」
「じゃあ?」
「歌って?」
「うた?」
「うん」
不思議そうにほけっと見つめるミキにやわらかい笑顔。
髪を撫でるのをやめると、ミキのふっくらとした唇をなぞった。
「すきなんだ。ミキちゃんの歌」
少し乾いた唇を軽く押すと、まだどこか戸惑っているミキの頭をしっかりと抱き寄せて、耳に唇を寄せた。
「こうしてね、ミキちゃんの歌…聞きたい」
来年も。再来年も。その先も。ずっと。
こうして抱きあって。
やさしい歌に包まれて。
「でもいいの? それで」
そんなのいつでもしてあげるってば。
うん。でもね…。
「いいの。それで」
明日はないかもしれないから。
次があるかだって、わからないから。
「じゃあ、ミキの時も…歌って?」
「うん。じゃぁ、愛を込めて歌うね」
音外しても笑わないでね。
えー。どーしよっかなぁ。なぁんてね。冗談。
「うん。ありがと…」
ちょっと照れくさそうに笑うミキの頬が少しだけ熱くなって、リカはくすっと微笑んで口付けた。
かち、かち。
秒針は淡々と明日に向かっていく。
ミキはしっかりと自分を抱きしめるリカの半身を乗せたまま、ゆっくりと深呼吸した。
少し鼻にかかったちょっとハスキーな声がやさしくリカの耳を打つ。
囁くように、甘く、甘く。
ありったけの想いを込めて。
ずっとこうして二人でいられるように…。
そんな願いを込めて、愛を込めて。
■ ■
すうっと滑り落ちた雫。
ミキは歌いながら、リカの目元をそっとぬぐった。
ぎゅっと抱きしめる腕に力を込めて、首筋に顔をうずめるリカ。
少し息苦しさを感じながら、それでもミキは歌う。
愛しいから。ここにいるから。離れないから。すきだから。
有り余って行き過ぎればムカつくことだって多々あるけど、それだってすきだから。
意地張って、素直じゃなくて、それはお互い様で、不器用で、一生懸命すきな証。
だから、こんな特別な日だから、いつもよりももっともっと願いを込めて、愛を込めて歌おう。
きっと笑っちゃうくらいやってることは些細なことなんだけど、それがとてもうれしい。
だから、ほら。
泣いちゃってるんだね。リカちゃん。
だってさ、ミキも去年泣いたし。
トク。トク。
一つに重なり合っている鼓動。
そのリズムに合わせて歌うミキ。
首筋に触れているリカの唇が微笑んでるのがわかって、ミキはぽんぽんとあやすように背中を叩いた。
春の星座がきらきらと瞬いて澄み切った夜空を駆け上がって行く。
静かな静かな夜更け。
冴えた冷たい空気の中に微かに聞こえるあたたかい歌声。
カーテンが開いたままの窓の向こうで、月は目を閉じて聞き入っていた。
(2006/2/2)
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