鐘の音

 白い雪に包まれてそれはひっそりと立っていた。
 あの日とは違ってよく晴れて澄んだ青い空の下、きらきらと朝の光に輝く雪は黒い御影石はよく映える。
 静かな山間の村の奥。
 ぐるりと見渡せば小さな教会の小さな白い十字架。

 はぁ…。
 吐き出した白い息が空の青の中に溶けていく。
 アイは軍から支給された皮の手袋をした手をパンパンと叩いてこすり合わせると、それでもなおかじかんで冷えた指先にもう一度はぁ…と息を吹きかけた。
「寒いね」
 リカは手袋を外して軍支給のネイビーブルーのボア素材のハーフコートのポケットにしまうと、アイの手を取って手袋を外してぎゅっと両手で包み、はぁっと息を吹きかけて揉むようにこすり合わせた。
「リカちゃんの手も冷たい」
 そう言って、アイもはぁっと重なり合った手に息を吹きかける。
「あいぼん、ありがと」
 微笑みかけたら、あの頃と変わらないいたずらっこのようなニカッとした笑顔。
 そんな二人に目を細めていたカオリはもう一度辺りを見回した。
「静かね」
 あの日と何も変わらない。
「…今でもウソみたいだよ」
 そう呟いて、マリの目はひっそりと雪の中にたたずむ黒い御影石へと移る。
「そうね…」
 言葉少なに呟いて、カオリもまた黒い御影石へと顔を向けた。
 アイとリカもじっと真っ白な雪を乗せた黒い御影石を見つめる。

 ゆっくりと脳裏に浮かんでくるさして大きくもない倉庫。
 重い扉。鉄の格子のついた窓。
 屋根に程近いところについた鉄の戸のついた小窓。
 山積みになっていた缶。

 黒い御影石の前に整列すると、
「敬礼」
 カオリの号令でピンと指先が整ったきれいな敬礼が4つ。
「黙祷」
 どこか気持ちを落ち着けるような低いトーンの声に合わせて目を閉じて頭を垂れ、深い祈りを捧げる。

 ちち…。
 鳥が小鳥が連れ立って空に向かって羽ばたいていく。
 時々風にざわざわと木々が揺れて、ひゅぅと耳元で風が冬の歌を歌う。
 聞こえてくるのはただ、それだけ。
 きらきらと輝く雪は、何も語らない。


■                         ■


 それは異様だった。

 9時32分。
 目的地に到着。
 小さな村の入り口でふいに感じた違和感はすぐに正体を現した。

 村にたどり着いた4人を待っていた静寂。
 聞こえるのは鋭い刃のような冬の山風と木々のざわめく音。
 山間の小さな小さな村。大して広いわけでもなく、人が多いわけでもない。
 それなのに、なぜこんなに静かなのか…。

 挨拶の声。
 仕事のやり取り。
 何気ない会話。
 子供のはしゃぐ声。

 聞こえるべきはずの声が聞こえてこない。

 何かある。
 4人は互いに顔を見合って一つうなずいた。

 調査。
 それが4人に課せられた任務。
 カオリをリーダーに編成されたこのチームの主な活動は調査、偵察など地味な任務である。
 しかしながら調査なら情報部のメロンがいる。そうではなく自分たちに回ってきたこと、そして場合によっては壊滅まで申し付かったことで何かあるだろうとすでに睨んでいたカオリだが、この静けさになにやら不穏な空気を感じ取った。ただおかしいならすでにみんな感じているが、どうにもただならない何か。不穏とかそういう言葉でも足りない何か…。
 結局は上手く言葉にできないが、
 “なんか…ものすごくイヤな感じ”
 宇宙がぴんと教えてくれたはっきりとした確信。

 カオリは周囲の様子に気を配りつつ、すべての家の戸を叩いて回るように指示を出した。

 トントントン。
 トントントン。
 トントントン。
 トントントン。

 どの家を叩いても、いくら待っても反応はない。

 トントントン。
 トントントン。
 トントントン。
 トントントン。

 村の中にドアをノックする音が響き、雪を踏みしめて走る足音と吐く息の荒さが妙に耳につく。

 トントン!

「ごめんくださぁ〜いっ!」

 ドンドンドン!

「おーいっ! おはようございまーすっ! 」

 トントントン!

「おはようございまーすっ! すいませ〜んっ!」

 ドンドン!

「おーーぃっ!」

 どんなに叩いても誰一人出てこない。
 誰かが顔を出してくることもなく、ひっそりと雪をかぶってたたずむ家々。
 すべての家を確認し終わったらしいようだから…と、カオリのところへ戻ろうとしたアイはふいにカーテンがうっすらと開いたままの窓に気づいて足を止めた。
「…よし」
 そーっと窓に近づいて窓枠に手を掛けると、よっと背伸びした。
「…!」

 もうすぐ食事だったのだろうか。テーブルに整えられた食器。
 消えてずいぶん時間がたっているらしいと感じる暖炉の火。
 ついたままの灯り。

 誰もいない。
 やっぱりというべきなのか、それとも…。
 アイはペタンと足を突くと、ふとうつむいてあごに手をやって考え込む。
 誰もいない。
 誰もいない…?
 誰もいない…のに?
「ぁ…!」
 アイはハッと顔を上げた。
「おーい。あいぼーん」
 リカの声とこっちに向かってくる3つの足音にパッと体を向けると、アイは神妙な面持ちのままぶんぶんと手招きした。
 リカ、カオリ、マリがたどり着くと、アイはぶんぶんと振るように人差し指で窓を指した。
「ぇ…」
「なに?」
「…!?」
 のぞきこんで、すぐに3人を襲った強烈な違和感。
 アイはコクリとうなずいた。
「いた…」
「なのに…消えた」
 呟くようにカオリはアイの言葉に感じ取った推測を付け足す。
 マリは窓の方に恐る恐る目をやると、はーっと白いため息を吐き出した。
「マジかよ…。消えたって…そんな冗談にもほどがあるって…」
「でも……」
 リカの表情も得体の知れない恐怖から任務への緊張感とは違った色で強張っていく。
 ひゅうと風が立ち尽くす4人の耳で唸って去っていく。
 ぞくっと背筋に冷たいものが走り、ゴクリと息を呑む。
「…行きましょう」

 もっと奥。もっと先へ。
 まだ見ていないところがあるはず。

 カオリは教会の十字架を並ぶ家々の屋根の向こうに見つけると、ひとまずそこに向かって歩き出した。

 幾重にも厚みを増して重なり合う灰色の雲。
 立ち並ぶ無人の家々を抜け、大きな通りを渡ると程なくして教会に辿りつく。

 そっと扉を開けてみたが、やはり誰もいなかった。
 とりあえず中に入って各々近くにあるイスに座ると、誰ともなしに零れ落ちたため息。
「どうなってんだよ…ここ…」
 お化け嫌いのマリにとってはどうにもたまらない。
「カオリ…ユウちゃんからなんか聞いてないの? なんかおかしいって」
「…うん…」
 カオリはただうなずいて答えるだけ。
 アイはそんな二人を不安げに見つめていたが、ふーっと息を吐いて腕組みしたまま。
 結局のところ、何の手かがりも見当たりそうもなく、単にホンモノのゴーストタウンに紛れ込んでしまったのか…とやれやれとマリがため息をつく。
 しんと静まり返った教会の礼拝堂。奥でひっそりとたたずむマリア様はただ微笑んでいるだけ。
「そういえば…」
 リカが探るように口を開くと、カオリ、マリ、アイがぱっと顔を向けた。
 リカは一通り顔を見渡すと、
「そういえば…シバちゃん、なんか気にかかることがある…って」
「気にかかる?」
 マリが繰り返すと、リカは小さくうなずいた。
「171部隊がいなくなった…って」
「化学技術部隊…だったよね。そこ…」
 リカはうなずいて答える。
「メロンもなんか怪しいって思ってて、調べてはいたみたいなんです。で、そしたら…急にいなくなった…って」
「急に…ねぇ」
 マリが腕組みしながら怪訝そうに繰り返す。
 カオリは考え込むように顎においていた指を離すと、腕組みして静かな口調で言った。
「そういえば…ユウちゃん、あの部隊、ちょっとキナクサイって言ってた」
「キナクサイ?」
 アイが不思議そうに言葉を繰り返す。
「うん。なんかね、ちょっとヤバそうな感じっていうのかなぁ…」

『アイツら、なんかやばいで。ずいぶんと右に寄り過ぎや』
 その時はなんとなくわかったようなわからないような…と、タバコを吹かすユウコをぼんやりと見つめていたが、今になってみればなるほどと思える。
『イタイ偉いさんががへんなことさせんとええけどな』

「じゃぁ、ここと何か関わってるっていうことも…」
「そうね。考えられるわね」
 リカにそう答えると、カオリは更に続けた。
「それから、そういえば…あたし、もう一つ気にかかってること思い出した」
「なになに!?」
 ゴーストタウンの正体が幽霊の仕業じゃないらしいことがわかってちょっとだけほっとしたマリがぐっと身を乗り出す。
「たしか…死刑が決まった凶悪政治犯の移送先って、たしかこの村だったと思う」
「え…!?」
「本当ですか?」
「ふぇ…」
 3人3様のリアクション。
 テロリストなど凶悪政治犯だった死刑囚の移送先は今回に限り、外部はもとより軍全体にも伝えられてなかった。カオリ達 末端にはもちろんのこと。任務に当たるとはいえ、そのことも知らされず、まして今回の任務についても調査としか伝えられていない。
「なぁ、カオリ、それ…誰から聞いたの?」
「ん? ユウちゃん」
「ちょっとぉ…カオリぃ」
「しょうがないじゃん。その時はこんな風に関わってくるなんて思ってなかったもん。でも、何かしら見えてきたわね」
 マリ、リカ、アイが力強くうなずいて返す。
 とりあえず、ここに敵はいない。
 では、なぜ誰もいないのか…。
 目的ははっきりした。
 後は進むのみ。
「行くわよ」

 教会の裏手側へ回ってみると、そこは墓地。立ち並ぶ墓石にマリがさりげなくリカの腕にしがみつく。
 その墓地の脇を通って進むと、20メートルほど先の木に囲まれた奥に何かの建物。
 確認するようにうなずきあって、慎重に歩を進める。

 ひゅう、ひゅうっと風が唸り、ざざっと木を揺らす。
 刺すような風と向かい合って木々の中の小道を進んでいった先にあったのは石造りの小ぢんまりとした倉庫だった。
 重い黒に近い外壁の石の色。鉄の扉。太い木材の閂。
 どこか近寄りがたい重々しい佇まいに何やらぴりぴりと体を駆けていく嫌な予感。
 リカはハンドガンをホルダーにしまい、ライフルを構えた。

 マリとアイは周りを警戒しながら、ぐるっと倉庫の周りを確認。
 ところどころ錆びた鉄格子のついた窓から覗いてみても、中は暗くてたいしてよくわからない。
 ちょうど裏手に回ると、そこには少し大きめの果物の缶詰くらいの缶がたくさん積み重なっている。その数およそ50くらいだろうか。
「なんだこれ」
 アイが手に取ろうとすると、ぱっとマリが手首を掴んで止めた。
「ちょっと待て。これ…なんか」
 黄色と黒のラインが引かれた缶。
「ヤバイ…」
 たとえ缶が錆付いてはいなくても、本能的にこれはマズイとマリの脳をびりびりと刺激する。
 ぎゅっと力が入った手に、アイは自分の不用意さを感じた。
「…痛い…」
「あっ…あぁ…ごめん」
 手が離れると、アイはそっと手首を押さえながら、缶に少しだけ顔を近づけた。
 黄色と黒のライン。その下に何やら並んだアルファベット。読めはしなかったが、並んだ字の羅列がアイの鼓動を強くドクンと叩いてこみ上げる不安感。
 ゆっくりと立ち上がると、もう一度壁全体を見回す。
「ヤグチさん…」
 アイがマリの袖を引く。マリがアイの視線を辿っていくと、そこには鉄の戸がついた小さな小窓。うっすらと青緑のしみが見える。
 ちょうど屋根との境辺りだろうか。扉は開かれたままになっていた。
 中を覗くことはできそうだが、小窓まではおよそ3.5メートルほどだろうか。思ったよりも高い。肩車しようかとも思ったが、なにぶんちびっこな二人。
 マリとアイは倉庫の正面で周囲の警戒に当たるカオリとリカの元へと戻った。

 カオリとリカは重い扉を見つめていた。
 緊張感に強張った表情。
 時々肩に入った力をほぐすようにその場で軽く飛び跳ねて体を揺らすリカ。
 一方、じっと扉を睨んだままのカオリ。
 マリとアイが戻ってくる。
 カオリは戻ってきたマリとアイにゆっくりと顔だけを向けた。
「どうだった?」
「うん。なんかさぁ、ヤバそうな缶が50個くらい積んであった」
「缶?」
「うん。たぶん薬物だと思う」
「薬物…。まさか……ね」
 妙な呟きだなと思うが何か強烈な不快感をずっと感じているカオリ。
 リカがライフルの前後を持ち直して構える。
 カオリがうなずくと、アサルトライフルを持ち直したマリと扉の前に立った。

 ガン!

 鉄の扉の前にしっかりとはめられた木の閂に思い切り銃の柄を叩きつける。

 ガン! ガン!
 ガン! ガン!

 太い木材はなかなか二つに割れてくれない。
 マリがチラッとリカに目配せして視線を後ろに流し、リカはうなずいて答えると扉から離れた。
「よっしゃ!」

 ダダダダダッ!

 閂に向かってアサルトライフルの引き金を引と、太い木材に線をなすように穴が開いていく。

 ダタダダッ!
 ダタダダッ!

 木材にある程度の穴が開いたのを確認すると、撃つのをやめて銃を持ち直し、またリカと二人がかりで銃の柄をたたきつけた。

 ガン! ガン!

「くっ!」
「っしゃ! もう少しっ!」

 ガン! ガン!

 バキッ!

 折れた木材を4人で取り払うと、重い鉄の扉の取っ手にリカが手を掛けた。
 カオリが大きくうなずく。

   ギィッ…。

 きしんだ音を立てて、重い扉がゆっくりと開く。
 暗い倉庫の中にゆっくりと光が差し込んで中が明らかになっていく。
 扉が完全に開いて、リカがふらりと後ろに下がる。
「あぁ……」
 マリの目がくるんと白くなってストンと膝から崩れ落ちる。
 リカがそれに気づいてふらふらとマリの上半身を抱えて抱き起こすが、目は倉庫の中から離すことはできなった。
 アイの目からすーっと涙が滑り落ちる。
 カオリもペタンと座り込んだ。その大きく見開いた瞳からぼろぼろと零れる涙。

 扉の奥にあったもの。
 それが人だとわかっても、どこか認めたくはなかった。

 それは無数の折り重なった物体の塊。
 腫れ上がって焼けたのかどぎついまでにピンクに染まった肌に散らばる濁った緑の斑点。
 どれも口から泡を吹いて、のどをかきむしって…。
 助けを求めるように延びたいくつものと緑とピンクに彩られた手。
 苦しみに見開いたままこっちを向いている目。

 マリがようやく気を取り戻して目を開けると、苦しみにもがいて息絶えたうつろな目と目が合って、思わず逸らした。
「ごめん…」
 マリはゆっくりと自力で体を起こすと、また目を開いたままのドアへの奥へと戻した。
 リカもゆっくりと立ち上がった。
「…ひどい…」
「…」
 アイは何も言わず、ただただ涙を流している。
 鉄の扉に付着した青緑のシミ。
 カオリはポツリと呟いた。
「ひどい……神様…」

 目の前に広がるそれは、まさに地獄絵図。
 今まで見てきたたくさんの地獄絵図とはまた一味違う、強烈にセンスの悪い鮮やかな色使いと残虐さ。

 ダッダッダッ…。

 何かが向かってくる足音。
 男だ!
 細い小道を抜けて出てきたその姿を認めると、マリはガバッと立ち上がって飛び掛った!
「うぁぁぁぁぁっ!」
 拳が男の顔面に炸裂する。
 拳を食らって吹っ飛んだ男が着ているのは自分達と同じ軍から支給されたダークグレーのウールのコート。胸等での紋章。
 マリはそのまま馬乗りになると、
「あぁぁぁぁぁぁっ!」

 ガツッ!
 ガスッ!

 男の顔面に拳を浴びせ続ける。
 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、目一杯拳を振り上げる。
 そこへ、
「どうした!」
 殴られている男を追ってきたのか、もう一人の兵士が現れた。
 それに気づかずにまだ男を殴り続けるマリ。
 兵士はすでに気を失っている男を助けようと銃を構えた。

 パンッ!

 火を噴いた銃口。
 うっと呻いて兵士が弾丸に貫かれた手から銃を落としてうずくまる。
 怒りに満ちた表情のリカの手の中のハンドガンから昇る細い煙。リカはそのまま兵士の頭に照準を合わせた。
「リカッ!」
 カオリの声にリカは不満げに銃を下ろすと、カオリに目で促されてマリの横に立つと手首を掴んだ。
「ヤグチさん、死んじゃいます」
「…」
 血に塗れて潰れた顔面。マリの革のグローブにも真っ赤な血。
 肩を大きく上下させて息をしながら、ゆっくりと立ち上がって離れた。
 カオリはうずくまる兵士の傍らにしゃがむと、襟を掴みあげた。
「…どういうこと」
 しかし兵士は睨みつけるだけで口を開こうとしない。
 襟を掴むカオリの手に力がこもる。
「なんなの…あれは。あんたたちのせいなの?」
 しかし男は顔を背けたまま答えない。
 カオリは男の襟から手を離して投げ捨てると、腹を蹴り上げて兵士の意識を灰色の空へと飛ばした。

 倉庫の中の変色した死体の数々。
 自分達と同じコート、同じ紋章。
 読めなかったけど、ヤバそうだと本能が悟らせた山積みの缶の正体。

 考えたくない現実。

「恥さらしっ…」
 カオリは忌々しげに呟いて白い地面を蹴り上げた。
 ざっと雪が舞う。
 リカは気持ちを落ち着けようとゆっくりと深く息を吐き出すと、倉庫の中を見つめるアイの肩を抱き寄せた。
「あいぼん?」
「…リカちゃん」
 アイが静かに泣きながらぎゅっとリカの腰に左腕を回してしがみつく。
 マリも乱暴に目を少し毛羽立ったコートの袖で拭うと、アイの隣に立って肩を抱いた。
 そして、カオリがゆっくりとアイの後ろに立って、リカとマリの肩に手を置く。

 少し落ち着いてくるとまた新しいことに気づく。

 大人、子供。
 若者、老人。
 男の人、女の人。

 みんな同じようにもがいて苦しみ、口から泡を吹き、扉に向かって折り重なっている。

 大きい体、小さい体、細い体、太い体。
 誰も彼もかまわない。

 きっと地獄があるんだったら、こんなだろう。
 きっとこんな風に苦しんで、もがいて…。
 でもなぜ?
 ここはどこ?
 なんでこの人たちはこんな風にならないといけなかったの?

 わかった。
 嫌でもわかった。認めたくない、信じたくない。
 でも、わかった。
 何が起こったのか、何をしたのか。

 後は情報部が教えてくれるだろう。
 だからもう、今は考えない。

 寒くて暗い倉庫の中。
 彼らは何を最後に願って、思っていたのだろう?

 アイはゴシゴシと目を拭うと、くるりと体を翻して走り出した。

「あいぼん!」
「カゴっ!」
「あいぼんっ!」

 走って走って、無我夢中でアイは走った。
 雪を蹴散らして、小さい体を必死に必死に前へと動かす。
 軍の中でも後ろから数えた方が早いくらいの足で一生懸命走る。

 走って、走って…。

 走って、走って…。

 涙で前がよく見えなくても、それでも、走って、走って…。

 気を失った兵士二人の拘束を済ませた後でほんの少しだけ出遅れた上に、雪に足を取られてなかなか追いつけない。
 もどかしさを感じながらカオリ、マリ、リカは後を追いかける。
 小道を抜け、墓地の脇を抜けて…。
 足跡を辿っていって教会の姿が見えた、その時…。

 ゴーン。
 ゴォーン…。

「鐘…」
 カオリが足を止めた。
 低く低く垂れ込めた灰色の空に高く高く響き渡ろうとする鐘の音。

 ゴーン。
 ゴォーン…。

「カオたん…」
「カオリ」

 ゴーン。
 ゴォーン…。

 雪に足を取られるなんてそんなの言い訳だ。
 走れ!

 雪を跳ね上げて、全身で走って、走って走って走って…。

 教会の扉を開けて奥に進むと、釣鐘の下、太いロープの前に見えた小さな背中。
 鐘を鳴らそうとロープを一生懸命に引っ張るアイがいた。
 カオリ、マリ、リカはすぐにロープを掴むと、ぐっと下へと引っ張った。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 再び鐘が静まり返った村中に響き渡る。
 重く、澄んだ鐘の音。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 響け。高く、高く。
 何度も何度も重いロープを4人の力を合わせて引く。

 ゴーン。
 ゴォーン。

「ばかぁぁっ! 神様のばかぁっ!! だいっきらいやっ! 神様なんてだいっきらいやぁっ!」
「あいぼん…」
 目を手の甲で拭うカオリ。
「ちっくしょーーーっ! 神様のばかぁっかやろぉぉぉぉっ!」
 マリが空に向かって叫んだ。
「…」
 言葉にならなくて、リカは涙を拭いもせずにただただロープを必死になって引っ張る。

 ゴーン。
 ゴォーン。

「なんでやねん! 何であんなんならなあかんねん! いややっ! あんなんおかしぃやん! 何も悪いことしてへんのにっ…かわいそうやっ! かわいそうやぁっ!」

 ゴーン。
 ゴォーン。

「あんなんじゃ誰も天国行かれへん!」

 だから…。

 だから鐘よ、もっと高く、もっと高く村中に響き渡れ!

 ゴーン。
 ゴォーン。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 高く、もっと大きく、空に響け!
 天国まで、もっともっと大きく、もっともっと高く!

 ゴーン。
 ゴォーン。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 鐘は鳴り続ける。
 風がゆっくりと雲を割り、そこにこれ以上ないくらい真っ青に澄んだ空が顔を出し、やわらかい光が差し込んでいた。


■                          ■


 黒い御影石は雪に包まれて静かに佇んでいる。

 倉庫は取り壊された。
 そしてそこにあった無数の死体は無造作に焼かれた。大量に出た灰は森にまかれたり沼や湖に捨て去られたり…。

 毒ガス兵器実験による大量虐殺。
 それを隠した軍。
 いつから始まったのかも、どうして始めたのか、なぜ村の人たちまで手にかけたのかも…。

 結局、この任務の結果も1部隊の暴走として片付けられたことをカオリ、マリ、リカ、アイは後々になって情報機関に所属するアユミたちから知らされる。
 部隊の日誌おろか所持していた記録も資料も闇に葬られ、不審に思って独自に調べていたアユミたちメロンの悔しそうな顔は今でも忘れられない。
 言葉にできなかった。
 悔しくて、悲しくて…。

 この村にはまだ人は戻ってこない。
 いや、戻ってくることもない。
 それでも…いつか、この村に活気に満ちた声や笑顔は返ってくるのだろうか?

 村は一つの石碑を建てて閉鎖されたまま忘れ去られている。

 教会は変わらずにそこにあった。
 中は埃が舞っていて、あの日と比べるとすっかり疲れている。
 埃をかぶったまま、マリア像はあの日と変わらない穏やかな笑みを浮かべている。
「ここ…今度そうじしにこよっか」
 カオリはそう言って苦笑いした。

 奥のドアを開けて、そこから一つ角を曲がると、そこが釣鐘ある塔の中。
 カオリ、マリ、リカ、アイはしっかりと太いロープを握った。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 あの日のように、今は誰もいなくなって死んだままの村に鐘の音が響き渡る。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 もう二度と、こんなことがないように。
 踏みにじられた魂がずっとずっと安らかに眠ることができるように。

 鐘の音が高い空に響き渡る。
 冴え冴えとした冬の青はどこかやさしい色をしている。
 やわらかい光を広げる太陽を浮かべて、どこまでもどこまでも広がっている。

 ゴーン。
 ゴォーン。

 鐘はまだ鳴り続ける。
 村の入り口でひっそりと花を開いていたどうにもせっかちなタンポポが、青い空を仰いで鐘の音に耳を傾けていた。

 

 

(2005/12/31)

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