青と灰色

 全開にしたウィンドウから入ってくる風が髪をかき回す。
 押さえるように頬杖をついて眺める向こうには青い青い空。流れる大きな雲。のんびりと息づいてるいつもどおりの町並み。

 カーステレオから流れるアップテンポのオールディーズ。

 なんとなく耳を傾けながら、赤いミニが信号を越えて小高い山道へと入っていく。
「どっかで休憩する?」
 リカがハンドルを操りながら尋ねる。
 ミキはちらりと目線だけを向けた。
「ううん。大丈夫」
「…うん」
「リカちゃん、疲れた?」
「ううん。あたしも大丈夫だよ。でも、ほら。もうお昼近いから…どうかなって思って」
「うん…」
 家を出てから3時間。
 目的の場所まではもう少し。あと1時間ほどかかる。
 その間、二人はただ無言で、リカは運転を、ミキは窓の向こうを眺めているだけだった。
 決してそこに深い意味なんてなく、ただなんとなく。本当にそれだけだった。

 対向車線に車が途切れ途切れの2車線道路。
 リカはミニを路肩に寄せて止めると、シートベルトを外した。
「何がいい?」
 カバンから財布を出すと、反対車線の路肩に佇む自販機を目で示す。
 そんなに種類のないどこか古びた自販機。
 ミキは自分のカバンから財布を出そうとした。
「いいよ。おごるから」
「…」
 珍しいと言いたげな目にリカは困ったように笑った。
「たまにはいいでしょ」
「たまにじゃなくてもいいけどね」
 ふふっといじわるくミキが笑って、だけどリカはちょっとほっとした気分になる。
「わかった。じゃなんかおもしろそうなのにするね」
 にっこりと微笑んで、すたすたと自販機に向かうリカ。
「ちょっと待って! リカちゃん!」
 ミキのちょっと慌てた声もまるっきり無視して、
「ねー! つぶつぶオレンジとおしるこどっちがいい?」
「ちょっ…おしるこって!」
 今夏じゃん。
 そんなココロのツッコミなど聞こえてるはずもなく、
「わかったー。おしるこねー」
「リカちゃん!?」
 思わず運転席の窓から身を乗り出すミキ。

 ガコン! ガコン!

「マジ…?」
 こんな時期にホットって…。
 自販機の見事な汚れ具合と疲れ具合に何か嫌なものを感じるミキ。
 リカは缶の底を確認すると、両手でしっかりと抱えて小走りで戻ってきた。
「おまたせ。ハイ」
「ハイ?」
 渡されたのは赤いデザインでおなじみのコーラの缶。
 へなっとミキはうなだれた。
「あれ。ホントにおしるこ買ってくるとか思ってた?」
「…いや…その…」
 すごすごと運転席の窓から離れて助手席にぺタリと座り込むと、リカもドアを開けて運転席に座った。
 リカの手にもコーラ。
 ぷしっと缶を開け、微妙に不機嫌な顔でコーラをのどに流し込むミキ。
 そんなミキがかわいくて、微笑みながらリカも缶を開けて一口。
 ホルダーに置くと、シートベルトを締めた。
「じゃ、行こっか」
「うん」
 降り注ぐ陽射しのように和んだ空気を連れて、ミニはまたゆるやかな山道を走り出した。


■                           ■


 窓の向こうには星空。
 月明かりもない食堂は窓から射し込むほんのわずかな明かりを頼りに、うっすらと影を落としてひっそりと静まり返っている。
 窓辺のテーブルの端に座り、リカは組んだ手の上に顎を乗せてぼんやりと星を浮かべる広やかな黒を眺めていた。

  『…列車が爆発しました。車両2つから爆発があり……』
   アナウンサーの緊張に強張った顔。
   後ろで慌しく走り回る局員とスタッフ。
  『…なおも炎上中です。それでは現場から……』
   風に煽られた雨の中、横転した車体は黒い煙を上げ、ちらちらと見える赤い炎。
   現場を囲む救急車や消防車の中に軍の車両。

 ドアを開けると、リカがぼんやりと窓の向こうを眺めていた。
 ミキはゆっくりと気持を落ち着けるように息を吐き出した。

   午前10時52分頃の惨劇。
   被害の拡大をおとめ隊の面々はテーブルでただ眺めているだけだった。
  『救出作業は難航しており、死傷者は400人を超える模様です』
   運び出される人々。
   救助者たちの怒鳴り声。
   そこも戦場だった。

  『なお、警察と軍はこの列車爆発についてテロ事件として……』

「リカちゃん」
「あ…」
「いい? 隣」
「うん」
 イスを引き、リカの隣に座ると、ミキも同じように窓の向こうを眺める。
 去年ともおととしとも故郷で見た時とも変わらない夏の星座が並んだ星空。
 リカは水滴に濡れたグラスを手にすると、周りの闇と同じ色になっている液体をのどに流し込んだ。
 そんなリカにミキの視線が映る。
「飲む?」
「なに?」
 リカは答えずに、グラスをミキの前に置いて背もたれに深く体を預けた。
 グラスを手にしたミキののどがこくっと動く。
「…水割り…?」
「うん」
 氷はすでに溶けていた。
 リカは薄く微笑んでいるようだった。
 ウィスキーでもなんでもない、けれど何かのアルコールを割った水割りは少なくとも上手くはなかった。
「おいしくないでしょ」
「…あぁ…うん…」
 暗闇に目が慣れて、リカが穏やかに笑っているのがわかった。
 ミキの前にあるグラスを手にすると、リカは味気ない水割りをまたのどに流し込む。
「少しは…眠くなるかなって…思ったんだけど…」
 グラスの中を覗いて、どこか疲れたように笑うリカ。
 ミキもイスの背に体を預けて藍色に近いダークグレーの天井を見上げた。
「1年か…」
「早いね」
「うん…」
 正直なところ早いのか遅いのかよくわからない。けれど、思い返してみればやっぱり早い…そんな気がした。
 コトッとグラスの底がテーブルを鳴らす。
 静かな静かな食堂。  重いため息の零れる音ですら、やけに耳についた。

   それは一本の電話から始まった。

   すべての番組を押しのけて列車爆破事件を流すマスコミ。
   だけどベースキャンプの食堂はいつもどおりで、のんびりとした正午。
   けたたましく騒ぎ出した電話を取りに立ち上がったのはリカだった。

   そういえば、今日田舎から両親が出てくるんだよね。
   なんて話した今朝。

   まだ連絡は来ない。

   ミキはふと、強烈に嫌な予感がした。
   こっちに来るのに爆破された列車が通る路線を使う…。
  『ハイ。第8前線基地第7兵舎です。……シバちゃん?』
   電話は情報機関に所属するアユミらしい。
  『…ぇっ…! ……うん…』
   戸惑う声。リカの顔が曇った。
  『カオたん』
   険しいリカの表情にカオリはすぐに立ち上がって駆け寄ると電話を変わる。
   リカは食堂から事務室へと繋がるドアを開けて慌てて中に入っていく。
   電話を受けるカオリの真剣な顔。

   ミキの中に嫌な緊張感が増していく。

   すぐに事務室から飛び出したリカとカオリが頷き合う。
   リカはきゅっと唇を結んでそのまま食堂を駆け出て行った。
  『ミキ』
  『はい』
   厳しい表情のままのカオリに呼ばれて電話を変わる。
  『ミキちゃん!?』
   電話の向こうのアユミの緊張して上ずった声。
   すべては確信に変わった。

  『…ご両親、今…軍付属の病院に運ばれたらしいの』

 グラスをテーブルに戻し、リカは窓の向こうを見て呟いた。
「今年は晴れるね」
「うん…」
 地平線のぎりぎりまで星に埋め尽くされた空。

   外にでると入り口にジープをつけてリカが待っていた。
   飛び乗ると、カオリが『気をつけて』と言い終える前にリカはアクセルを踏み込んだ。

   ヴン!

   足元の水溜りを高く跳ね上げてジープが飛び出していく。

「怖かったよ。今思えばさ」
 思い出してミキから零れる苦笑い。

   カーキ色の塊が風と雨を蹴散らして時速100キロで飛んでいく。
   唸りを上げて突き進むその様は運転手共々鬼気迫るものだった。
   無言の車内。
   それがかれこれ3時間半。

「正直言って生きた心地しなかったよ。ありがたかったけど」
「ねぇ。自分でもすごいと思った。よく事故んなかったなぁって」
 リカもくすくすと笑う。
 ミキは思わずパシと腕を叩いた。
「ちょっと! なにそれー!」
「え。だってホントにそうじゃん」
「そうだけどさぁ」
 静かな食堂に響く笑い声。
 壁を跳ね返って届いた残響に気づいて、顔を見合わせて「しーっ」と人差し指を唇に当てた。

 再び静寂が訪れる食堂。
 リカの前に置かれたグラスを手にして、ミキが水割りを胃へと流し込む。
「夕方だったっけ? 着いたの」
「うん…」
 暗がりの中の静かな笑みを浮かべるリカに重い影が落ちる。
 ミキは真正面の暗闇を見つめていた。

   廊下まで響いている泣き声。
   なだめる声も嗚咽に詰まっていて言葉になっていなかった。
   忙しなく行き交う医師と看護士。
   途中で見た溢れかえる負傷者。
   軍服やら迷彩やらとすれ違う軍関係者。

   ここは戦場なのかと思い知らされる。

   行き先としてミキに告げられたのは、院内でもっとも広い霊安室。

 はっと、天井を仰いで息を吐き出してみた。なにが見えるわけでもないのに。
「…。どうしてって…」
「…」
「霊安室って言われた途端に足、震えちゃってさ。でも、ウソだって…。ウソって…」
 掠れた声。
「ミキちゃん…」
 そっと力なく膝に乗っけられた手を取ろうとして、それは軽く手で制された。
「ふふ。大丈夫。大丈夫だから」
 微かな外からの光に浮かんだミキは笑っていた…ように見えた。
「なに? 泣いてると思った?」
「…」
「大丈夫。大丈夫だよ」
 その言葉を笑顔で一つ繰り返す毎にずきっとリカの胸がえぐられるように痛む。許されるなら、目を閉じて、耳をふさいでいたかった。
 ミキはそっと力なく下がっているリカの手を取って、しっかりと繋いだ。
「ミキちゃん…?」
「うん…」
 絡めた指先に力が込められて、リカの指先に生まれた鈍い痛み。
「リカちゃん」
「ん?」
「うん…」

 
   霊安室の扉は開け放たれたままだった。

   等間隔に並べられた遺体。
   物言わぬ妻の姿に崩れ落ちる初老の男性。
   挨拶もなしに旅立った恋人にすがって泣き喚く女性。
   友人の変わり果てた姿に必死に堪えて目を抑える青年。
   母親を泣きながらなだめる若者。
   目覚めぬ息子を前に狂ったように怒り、低い天井に向かって叫ぶ父親。
   震える手で別れの化粧を自ら娘に施す母親。

   穏やかな表情はひとつもない。
   あるというのなら、ただそう見えるだけ。

   苦悶にゆがむ顔。
   爛れたり、潰れて表情すらわからない者。

   穏やかな顔など、ここにはひとつもない。

   1歩、なんとか踏み出して中に入る。
   まだ何の現実感も沸かない。
   吐き気を伴う緊張感に鼓動を早められながら、悲しみの原と踏み入る。

  『フジモト』
   呼ばれた方を見ると、制服姿のユウコがバインダーを片手に足早に向かってくる。
   ミキにはその表情は悲しみと怒りに満ちたこの空間で異様なほど冷静に見えた。
  『こっちや』
   ユウコの表情に努めて事務的に…そんな気配をリカは感じ取っていた。
   リカは支えるわけではなく、けど寄り添うように後をついていく。
   縫うようにまっすぐに歩いていくユウコの、この空気の中で気丈に動く背中が小さく感じる。

  『ミキたん!』

   この空間に合わない高い声も、切羽詰っていて痛々しかった。
   2つの簡易寝台のそばにアヤがいた。
   ユウコはその寝台の間に立ち止まって、丁寧に頭を下げた。

   壁のそばに少し間隔を置いて並んだ二つの遺体。
   真っ白のシーツに上半身までを覆われて、父と母はミキの前にある。
   真っ白な顔。
   呼吸で上下する気配のない胸。
   なのに、声をかけたら飛び起きて、
  『どうしたのぉ。そんな顔してぇ』
  『バカ。ほらっ。笑った笑った!』
   そんなことを言って小突いてくるような気がした。
  『……うそ…』
   体が言うことを聞いてくれない。
   なんとか手を伸ばしてようやく触れた母親の頬は、すべてを凍りつかせるほど冷たかった。

   その冷たさが、現実だと突きつける。

   アヤの泣き出しそうな目。
   ユウコは小さくため息をついた。
  『車両が横転した際に受けた圧迫での内臓破裂と一酸化炭素中毒やそうや』
   淡々とした声だった。

   目の前が回った。
   ふらりと崩れそうになったところを後ろからリカに支えられ、ミキはぐっと拳を握った。

「痛かった……よね」
 やわらかいミキの声。
 リカは首を振った。
「…そんなことない」

   ミキは唇を噛み締めて、顔を上げた。
  『そうです』
   崩れそうになる自分を叩きあげた。

  『軍人になるからには、泣くなよ』
   母親はずっと大反対で、家を出る前日、父親にそう言われたことを思い出した。

   ユウコがじっとまっすぐに自分を見るミキの瞳を見つめ返す。
  『わかりました。では、ここにサインを』
   ユウコがバインダーを手渡す。
   バインダーを受け取ってサインをしようとボールペンを握った手が震えた。
  『ミキたん…』
   きっと気づいていない。
   手元だけじゃなく全身が震えていた。
   噛み切りそうなほど強く唇を噛んで自分を保とうとしている姿がとてつもなく痛い。
  『すいません』
  『…』
   受け取ったバインダーの用紙に書かれたサインは素直に慟哭していた。
   無表情だったユウコの顔に切なさが少しだけ滲み出す。
   固く固く握り締めたミキの拳から血が流れた。

   立ち尽くして、しかし、体を震わせて、ミキが向かい合っている何か。
   それは怒りなのか、悲しみなのか、戸惑いなのか、絶望なのか。
   見ていられなかった。
   どうしていいのかわからなかった。
   それでもアヤは、ただその姿を目を逸らさずに見つめるだけ。

   悲しみは木霊して、嗚咽と名前を呼ぶ声が響き渡る。

   精一杯踏みとどまろうとする背中がリカにはせつなく映った。
   ユウコを見ると、同じような瞳をしていた。

   アヤはそんな二人に気がついた。
   灰色の瞳。
   無表情と冷静さを装ってすべての感情を失ったような暗い灰色。
   けれど、その向こうに押し込められたものに、アヤは触れた気がした。
   リカが何かを言おうと口を開き、ユウコが力強くうなずいた。

   そして、リカは紡ぎかけた言葉を、呟くように口にした。

  『…いいな』

   パアンッ!

   甲高い残響。
   リカの顔が激しく左にぶれた。
  『なによおっ! 今のっ!』

   ダンッ!

   大きく振り払った右手でリカの胸元を掴んで壁に背中を叩きつける。
  『いいなって…なんなのよっ!』

   ダンッ! ドンッ!

   激しく何度も何度も襟元を掴んで壁にリカの背中を叩きつける。
   リカはされるまま、ただじっとミキを見つめていた。
  『ミッ…ミキたんっ!』
   怒って当然のことだ。しかし、このままではいけない。
   止めようと動き出そうとしたところを、
  『マツーラッ』
   ぐっとユウコに肩を掴まれた。
   低い声。爪が制服越しにぐっと肩に食い込んでくる。
  『えぇねん…』
  『…ナカザー…さん…?』
   その表情はまるで自分が殴られているかのようにアヤには思えた。

  『なによおっ! 今のっ…今っ…のっ…ことっ……っ…ぐっ』

   泣いていた。

  『ぐっ…。なんっ…でっ…』

   リカの肩を強く壁に押し付けて、噛み殺した嗚咽を零してうなだれるミキ。
   リカは頼りないミキの体をぐっと抱き寄せると、アヤに微笑みかけた。
   すっとユウコの手がアヤから離れる。
   リカはアヤに押し付けるようにミキの体を抱かせた。
  『リカちゃん!?』
  『うん』
   ポンとアヤの肩を叩いて、リカはくるりと背中を向けた。
   ぎゅっとアヤにすがってずるずると座り込むミキ。
   『ぅぁぁっ…。くっ…うっ…ぁぁぁ…』
   その体と、声と涙を…吐き出された全部を全身で受け止めて包んであげる。
   それが今の自分がしてあげられることだとアヤは思った。

  『うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』

   一度吐き出した感情は、どんなに堪えても止まらない。

 あの日の、あの感触、あのキモチ、一日だって胸の中から消えることはない。
 リカはもう一度首を横に振った。
「痛く…なかったよ」
「ウソ」
「ウソじゃない。痛くないよ」
 リカは笑っていた。

 傷つけることだとわかっていた。
 それでも言った。
 止めなかった。
 そうするべきだと思った。
 そんな自分に、あの痛みが痛いと言えるのだろうか?
 痛いのは、心。
 でも、その痛みすら、痛いと思ってはいけないと…そう思っている。

「いいんだよ。ミキちゃん」
 繋いでいた手を離した。

  『泣きたい時は…泣いたほうがえぇねん』

 ミキはその手を捕まえて、もう一度しっかりと繋ぎ直した。
「いいんだよ…」

 痛かった。
 溢れ出る感情をすべて吐き出した。
 怒りも、悲しみも、なにもかも。

 泣くだけ泣いて、後に残ったのは、それでも生きていくんだという現実。

「いいんだ…」

 突然の別れ。
 どこまでいってもそれは単なる暴力。

 痛みは消えることはないだろう。
 でも、和らげることはできる。
 形や種類は違っても、こうして痛みを抱えて、それでも前を向いてあがく人が…ほら、隣に。

「リカちゃん」
「なに?」
「…うん」

   帰る途中、階段を下りながらアヤは言った。
  『ちょっとだけ…リカちゃんがうらやましかった』
   どうしてと尋ねたら、
  『だってさ、ミキたん…泣けたじゃん』
   ってふわっと笑った。
  『思いっきり、わーって』
   悔しかったと呟いて、
  『言った言葉はたしかにひどいけど、あんまり怒んないであげて』
   そう言ったアヤの表情は少しだけさびしそうに見えた。

 まだ半分ほど残っている水割りをミキは一気に飲み干した。
 はっ…と息を吐く。

  『その言葉の意味……あたし、なんとなくわかるんだ』

 繋いだ手のやわらかい感触が生み出すあたたかさ。
 ミキはリカの頬に手を添えた。

 唇が重なる。

   重苦しいジープの中で場違いにアップテンポのオールディーズ。
   激しい雨の中、無言の5時間半。

   基地に着いてから、リカはどこかへいったきり兵舎には戻って来なかった。
  『リカちゃん、あの頃に…戻っちゃった』
   暗闇に消えていく後姿にノゾミが呟いた。カオリも目を伏せてうなずく。

   あちこちに転がり、重なる、真っ黒に焦げた単なる墨の塊。

   空襲を受けた港町の復旧と遺体処理。
   ノゾミは最初の任務を終えたあの頃の姿を今のリカに見ていた。

 親指でそっと触れてみたリカの唇はかすかに震えていた。
「…ミキちゃん?」
「うん…」
 不安そうに自分を見つめるリカ。

   次の日の午後。
   相棒の中でただ遠くを眺めていたリカを見つけた。
   そしてミキは淡々と語るリカの口から、言葉の意味を悟った。

  『比べたって意味無いよ』

   笑っていた。

 最期を見るどころか、その姿もわからないまま失ったリカ。
 最期を見ることはできなかったが、その姿を見ることはできたミキ。

 果たして、どちらがマシなのだろう。

「すきだよ」
「…」
 目を伏せて顔を背けるから、ミキは微笑みかけて頬に口付けた。

 いつか、この痛みだって消える日が来るかもしれない。
 今は泣けないけど、今は泣かないけど、いつの日か…。

 もう一つ夜を越えれば、鉛玉の飛び交う戦場にいる二人。
 なにもかもを赦してくれそうな伸びやかな空。
 もう…いいかなぁっていう気持ちを振り払って、銃を握る。

「ミキさぁ…おとめ隊でよかったよ」

 ここには、仲間がいる。
 それぞれに痛みを持ち、それでも前を向こうとする仲間が…。

「うん…」

 眠れない夜。
 どちらが言い出したわけでもなく、一つのベッドで抱き合って、気がつけば夢の中…。
 短い夏の夜も、まだ空の白む気配はなかった。

              
■                         ■


 白い御影石が緑の芝によく生えていた。
 きらきらと眩しい夏の光を受けて、遠くには水平線と輝く海が見える。
 祈りを捧げるミキの背中を眺めていたリカも傍らにひざまずくと、目を閉じて祈りを捧げた。

 頬を射す陽射しと芝を揺らす暖かい風。

 目を開けると真っ白な光が眩しくて少しだけ痛かった。
 静かな墓地によく通るとんびの声。
「ミキちゃん」
「ん?」
「…よかったの?」
「そんなに不安?」
 逆に聞き返されて、リカは困ったように笑った。
 ふふ…とミキも笑顔を見せる。
「いいんだよ。これで」
「…」
「言ったじゃん」
 そばにいたいって…。
「聞いたよね?」
 そばにいてくれる…って。
 リカがコクリとうなずく。
「だから、いいんだよ」

 姉は自分のところに来たらどうかと言った。
 ミキは首を横に振った。
 結婚した姉には愛する人との生活がある。
 まして自分と姉とには血のつながりが無い。その言葉だけで充分だった。

 そしてなにより、自分にはそばにいて愛しいと思う人がいる。

「ミキの居場所は、どこだっけ?」
 ニコッと笑ったミキの笑顔が夏の太陽よりも眩しく感じる。
 リカはトンと自分の胸に手を置いた。
「ここ」
「そっ。正解。リカちゃんの居場所は、ここだから」
 ミキはリカの手を取ると自分の胸の上に置いた。
 そして、二つの名前が刻まれた白い御影石に向って言った。
「お父さん。お母さん。そういうことだから。ミキは、大丈夫だよ」
 たぶん、ありきたりなんだろうな。こんなセリフ。
 ミキはちょっとくすぐったかった。
 リカはそんなミキの手に指を絡めて、
「お父さん。お母さん。そういうことなので、よろしくお願いします」
 深く頭を下げた。
 白い御影石は青い空の中、なんにも答えはしないけど光を受けて静かに微笑んでいた。

    *

 帰りは遠回りして海岸線を通っていこう。
 真っ青な空と海を背景に赤いミニが走る。
 途中で買ったサンドウィッチの箱を開けると、ミキはハムサンドを銜えて、
「リカひゃん。あーん」
 タマゴサンドをリカの口元に運ぶ。
「うん。あーん」
「ん。はひ」
「うん」
 はむっと目線だけ前に向けたままタマゴサンドを銜えると、左手をハンドルから離して中身がちょっと落ちそうなタマゴサンドを手にした。
「おいひ」
「うん」
 ミキがぷしっとノンアルコールビールの缶を開けて、大きくぐびっと一口。
「はーっ! いいねぇ。サイコー!」
「ふふっ。ミキちゃん、おっさんだよ。それじゃ」
「いいの。いる?」
「うーん…飲みたいけどなぁ」
 飲んだら乗るな。乗るなら飲むな。これは基本。そのおかげで何度真夜中にケイとユウコに呼び出されたことか…。
「やめとく。安全第一。帰ったらさ、ちゃんとアルコール飲もうよ」
「わかった。じゃ、これ」
 プルトップを引き上げてジンジャーエールを手渡す。
「まっ。気分は…だね」
「ふふっ。そうだね」
 手に残ってるタマゴサンドを一気に口に押し込んで、ジンジャーエールで流し込んだ。
「っはーっ! サイコー!」
「ほらぁ。リカちゃんだって」
 はははってミキが声を上げて笑う。
 ふっと目が合って、リカとミキは手にした缶を掲げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
 なーんてね…って。
 笑い声に混じってコツンとぶつかり合った缶。

 カーステレオから流れるきらめく夏の午後によく合ったキャチーなメロディー。
 ふと感じる潮の香り。
 眩しい夏の午後。
 開け放たれたウィンドウの向こうの空と海は、どこまでも青く鮮やかに輝いていた。
   

 

 

(2004/6/21)

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