海岸通りの喫茶店

 カランカラン。

「おはよーございまーす」

 ドアのベルが軽やかに歌う。
 マスターとママの挨拶を笑顔で受けながらカウンターの奥へと回ってトートバッグを置くと、赤いチェックのエプロンを着けながらすぐにカウンターから出る。
 エプロンの後ろを結びながらちらりと壁にかかった時計を見れば8時10分前。
「看板出してきまーす」

 カランカラン。

 ドアのベルがまた軽やかに歌って、外は眩しい青い空。

 “ 喫茶 Memory ”

「よっと…。これでよしっと」

 ミキはうーんと空に向かって大きく腕を伸ばした。


    *


 軽やかなジャズとほのかに漂うやわらかいコーヒーの香り。
 どことなく忙しいモーニングの時間も少し落ち着いてきた頃、

 カランコロン。
 カランコロン。

 入ってきたのは幼稚園に子供を送り出してきたいつもの若奥様4人組。
「おはようさ〜ん」
 髪を金色に染めたにぎやかな柄の服と過剰に華やかなメイクの若奥様を先頭に空いているテーブルに着くと、かっちりとスーツできめたメガネの若奥様が軽く手を上げて、
「いつものでお願いね」
「はい」
 ミキは笑顔で返して伝票を切るとマスターに「お願いしまーす」と手渡した。
 テーブルでは黒いセル枠のメガネを掛けたコドモみたいな赤いエプロンの若奥様がチラシを手にうきうきと、
「ほら見てー! 今日は2丁目のスーパーでお豆腐が2円も安いのよぉ!」
 と、隣に座ったひらひらのフリル満載のピンクのエプロンドレスを着た若奥様に勧めている。
「わぁ、ほんとぉ。安いわねぇ」
「ほんまやなぁ。これもいつもより安いんとちゃう?」
 華やかメイクの若奥様もチラシを覗き込むと、キャリアスーツの若奥様はやれやれと吐き捨てた。
「まったくもう。1円1円ってみみっちぃったらありませんわね」
「な〜に言ってるのよ。1円を笑うものは1円に泣くのよ。こんな時だからこそ、しっかり節約しないとダメでしょ」
 赤いエプロンの若奥様が言い返して、いつものやり取りが始まる。
 毎日飽きないねぇと思いながら、
「お待たせました。ロイヤルミルクティーとレモンティーとコーヒー、ホットを2つです」
 ミキがテーブルにカップを並べていく。
 それを見てエプロンドレスの若奥様が言い争う二人の間に入った。
「ね。お紅茶もきたし、楽しくお話しましょ」
「せやせや。それになんだかんだ言ったって、いっつも一緒にスーパー来てるやん」
「まぁ…まぁね。お付き合いは大切ですもの」
 と、ちょっとバツが悪そうにメガネのフレームを押し上げて紅茶をすするスーツの若奥様。

 ちょっとだけ砂糖を控えめに。
 ゆったりと昇る湯気と香りにほんわかと空気が和んでいく。
 窓の向こうは今日も冬らしい澄んだ青い空。
 今日もお洗濯物よく乾きそうね、なんていうところから始まって幼稚園の先生のことから他の園児のお父さんの品評会が始まって、いくつもいくつも話に花が咲いていく。

 カランコロンとその間にも思い出したようにベルは歌う。
 ミキが伝票に注文を書き終えてママに渡すと、じーっと絵を見ていた華やかメイクの若奥様に声をかけられた。前にも紳士が描かれた絵を見て『今この絵、動いたで』と言い出したことがあり、どうやら独特の感性をお持ちらしい。
「なぁ、この絵何なん?」
 4号のキャンバスに線のみで描かれた犬であるらしいその絵はある意味芸術的とも言えるだろう。けれど微笑んでるらしい顔と一本線の体。そのシンプルさとシュールさを理解するにはどうやら100年ほどかかりそうだ。
「犬…じゃないですかね」
「たぶんな。でもウチが聞きたいのはそうやなくて、これコドモの落書きかなんかとちゃうのん?」
 すると、ママが常連さんから店のお祝いにといただいたものだと教えてくれた。
「まぁたけったいなセンスしてんねんなぁ〜」
「あら、何言ってるのよ。素敵じゃない!」
 スーツの若奥様はカップを置くと絵を見てしみじみと目を細めた。
「知らないの? これケメコ・ダーヤスって有名な前衛作家の作品よ。買うとけっこういいお値段するんだから」
「へぇ〜…」
 ミキはまじまじと絵を覗き込んだ。
 これでいいんならミキの絵いくらで売れるんだろ…。
 思わず口が開いてしまう。
 なんとも言えない空気。
「最近はヴィクトリア・キャメイっていう新進気鋭の作家のもいい感じよ」
 たぶんこんな感じの絵なんだろう。
 マジでミキもなんか描いてみようかな…。
 芸術って、わかんない。

 時計の針が9時30分を示す頃、若奥様4人組は連れ立っていざスーパーへと店を後にした。
 にぎやかなおしゃべりが消えてすうっと店内が落ち着いていく。
 カップとポットを片付けながら、店内を優雅に回るワルツに耳を傾けるミキ。

 カランカラン。

「おはようございまーす。らびっと運輸でーす」
「あ、リカちゃん」
「荷物をお届けに参りました」
 レジカウンターに小包を置くと伝票を取り出す。
 カウンターの奥にトレイを下げてミキがどれどれと荷物を確認すると、どうやらおとといマスターが知人から送ってもらったケーキに使う柿のようだ。
 伝票にサインをすると、
「ありがとうございます」
 リカは伝票をファイルに入れて制服のカーゴパンツのポケットにしまった。
「今日、またお昼にみんなで来るね」
「OK。また後でね。いってらっしゃい」
「うん。じゃ、行ってくるね」
 ちょっと照れくさそうに笑いながら『ぐっちゃ〜』と次の配達先へと向かっていた。

 ヴゥン…。

 ドアの向こうのエンジン音を聞きながらテーブルを拭く。
 車道に入って流れて遠ざかる後姿をちらりと見送ると、「よし」と布巾をトレイに乗せてカウンターへと戻る。
 モーニングの時間もひと段落。
 カップを洗ったり、ランチの下ごしらえを手伝いながら時々カランコロンとドアのベルに呼ばれてカウンターから出て…。
 ランチタイムまでのほんのひと時ののんびりした時間に緩やかな王様のワルツ。

 店内に飾ってある人気歌手のサインをうっとりと眺める主婦。
 もちろん彼女が座ってるのは来店したときに彼が座っていたイス。ドアから二つ目のカウンター席。

 扇子をはたはたと動かしながらマスターと談笑する頭のてっぺんにちょこんと毛が乗ったちょびヒゲの初老の男性。

 曲が終わって針が上がる。
 ミキは手近にあったフレンチ・ポップスに替えるとレコード盤に針を置いた。
 弾けたメロディーと華やかな女性の声。

 カランカラン。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
 藍色のメイド服に白のエプロンとフリルのカチューシャ、そしてソックスは丘の上のお屋敷のメイドさん。
「おととい注文をお願いしたシラユリです」
 皿を洗っていたミキは蛇口を閉め、エプロンで手を拭くと、
「ありがとうございます。今日はいつものにアッサム3袋ですよね」
「はい。あと、今日のお勧めのケーキってなんですか?」
「今日はショートケーキです」
 冷蔵庫から一つ取り出してみせる。
 たっぷりのクリームと鮮やかなイチゴ。メイドはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、6個ください」
「はい。ありがとうございます」
「奥様もお嬢様もここのケーキがお気に入りなんです」
 たまに変わった色のペンギンと一緒にいるとってもとってもかわいいショートカットの女の子を何度かミキも見たことがある。
 いつも高らかに優雅に笑う丘の上のお屋敷夫人は一流のものしか好まないというから、そう言われるとなんだか自分のことのようにうれしい。
「本当にいつもありがとうございます」
 ミキはママからケーキ箱を受け取ると、軽やかにレジのキーを叩いた。
「ブレンドコーヒー、ダージリン、アッサムを3袋にショート6個で…」
 チンと甲高い声でレジが歌う。
 お金を受け取り、レシートを渡すと持参した袋に入れるのを手伝う。
「よいしょっと。それでは、ありがとうございました」
 メイドは袋を肩にかけ、大事そうにケーキの箱を抱えて店を出た。

 カランカラン。
 カランカラン。

 にぎやかにベルが歌って見送る。
 時計に目をやればもうすぐランチタイム。
 ミキは大きく腕を伸ばすと、流しに残したままの洗いものの続きを始めた。


   *

 外はキラキラと太陽の光に溢れている。
 今日は空気も澄んでてよく晴れているかなんとなく暖かい。
 道行く人の重いコートの裾も少しだけ軽やかに見えて、どこかのんびりと過ぎていく穏やかな時間。

 お客さんに水を出したり、注文を取ったり。
 その合間を縫って下ごしらえを手伝ったり。

 そんなこんなで…。

 ボーン。
 ボーン。

 柱時計が正午を告げる。
 本格的なランチタイムの始まり。

 カランカラン。

「ミキちゃん。来たよー」
「こんにちは」
「こんにちはぁ」

 入ってきたのはライムグリーンの制服3人組。
 空いているテーブルに座ると、ママがミキにお昼に入るように言うから、ミキもエプロンを外して一緒にテーブルへ。

 今日は何食べようかな〜って、悩むこと5分。
 リカは今日のオススメAランチ。
 午後にたくさんの大荷物が待っているエリカはなんとなくカツカレー。
 いつまでたっても決まりそうにないユイはミキにせっつかれて迷った挙句焼肉ランチ。
 せっついたミキは言うまでもなく焼肉ランチ。

 店内をふわりと漂っていく香ばしいソースの香り。
 ずっーとメニューを眺めていたユイは難しい顔をしてパタンとメニューブックを閉じると顔を上げた。
「フジモトさん。今日のおすすめケーキってなんですか?」
「ショートケーキだよ。昨日すっごくおいしそうなイチゴが入ってさぁ」
「そうなんですかぁ。ショートケーキかぁ…それもえぇなぁ。あぁ…迷うわぁ。パフェも捨てがたいし」
「じゃあさ、両方食べれば?」
「なぁん。エリカちゃん。ココロこもってないなぁ。それにお給料日前やん」
「まぁねぇ。じゃあやめとけば…ってわけにはいかないんでしょ?」
「あったりまえやん。それはイヤやねん。あ〜も〜どーしよぉ〜」
 むーと唸ってまたメニューとにらめっこ。
 見かねたリカが、
「じゃぁさ、あたし、パフェ食べるよ。」
「ほんまですかぁ!」
 きらきらと笑顔が眩しい。
「うん。イチゴパフェにする。せっかくおいしいイチゴ入ったんだし。ユイちゃん。少しあげるから、ちょっとちょうだいね」
「はぁいっ! もっちろんですっ! わーぃ! やったぁ!」
 もうすっかりテンション上上なユイ。
 ショートケーキで、あっそういえばとミキ。
「今日、丘の上のお屋敷のメイドさん来てさ、ショートケーキ6つ買ってったんだよね」
「あのオーッホホホホホッ。ごめんあさーせな奥様の?」
「エリカちゃん、それちょっとちゃう。こぉや。おぉーーっほっほっほっ! おぉーーっほっほっほっ! ごめんぁさぁせっ! ごめんぁさぁせっ!」
 エリカの3割り増しくらいの加減でモノマネをすると、なんだなんだと他のテーブルの客が振り向いた。
「ちょっとぉもぉ! ユイ! やりすぎたってば」
 とか言いながらおなかを抱えて笑うリカ。その隣でミキも足をバタバタさせておなかを抱えて泣くほど笑っている。
 そして、笑いすぎてイスから滑り落ちそうになっているエリカにまた笑いが溢れ出す。

 ふーふーと肩で息をして、なんとなく落ち着いた4人の周りをフレンチポップスがスキップしながら流れていく。
 バカ笑いにようやく一息がついた頃にランチの出来上がり。
 店員1人と常連3人。なので出来上がった料理は各自でテーブルへ。
 座って両手を合わせたら、はい。
「いただきまーす!」
 めしあがれ。
 ママがにっこり。

 ママ自慢の手料理を食べながら、冬晴れのアイスブルーの空とコートの襟を立てて歩く人を見て、
「なんかお鍋したいね」
「じゃぁ、今日鍋にしようか」
 なんて話で盛り上がる。
「じゃあ、あたしキムチ鍋がいいですぅ」
「おいしいよねぇ」
 あったかい部屋で熱々の鍋をおこたでみんなわいわい。
 じゃあ週末はみんなでお鍋パーティしようか、なんて話がまとまって、食べ終わったら、さぁ、デザートタイム!

 たっぷりのイチゴ。まっしろのクリームに鮮やかにストロベリーソース。そして長いグラスの間にはストロベリーアイスとヨーグルト。
 まず一口食べて…。
「んーっ!! おいしーっ! ほら。ユイちゃん」
 リカがスプーンにたっぷりと乗せて手を添えて差し出す。
「わぁ! ありがとうございまーす!」
 あーんって、食べさせたらイチゴと同じくらい真っ赤になったユイ。
「どお?」
「めっちゃおいしいですけど、ちょっとはずかしぃ」
 キャッて手で顔を隠しなんだかくねくねしてるユイに満足そうなリカは、
「はい。ミキちゃん。あ〜ん」
 隣でポーカーフェイスを装っていたミキにもあ〜ん。
「ふふっ。ぅふふふっ。あ〜ん」
 ぱくって食べて、
「あま〜い。んふっ。おいし」
「いいなぁ。フジモトさん」
 エリカがにやけながら茶化すと、リカがほらっとたっぷりクリームとイチゴが乗っかったスプーンを向けた。
「はい。エリカ」
「え? あ。ありがとーございまーす!」
 ちょっと照れくさそうにスプーンにパクつくエリカ。
「わぁ〜! すっごいおいしい!」
「なぁ。次絶対パフェ食べる。はい。イシカーさん」
 ユイがイチゴとスポンジを重ねたイチゴたっぷりのショートケーキをフォークで一口サイズに分けて、お返しと少し身を乗り出して口元に差し出す。
「あ。ありがとー」
 ふふっ。ちょっと恥ずかしいねって笑って、イチゴとクリームの素敵な甘酸っぱいハーモニーにうれしそうに目を細めた。

 まったり過ぎていくお昼時。
 でも楽しい時間は過ぎるのが速いから、時計をちらりと見たらそろそろ戻らないといけない時間。
 食べ終えた皿を重ねてまとめてカウンターに返して、お会計。

「ごちそうさまでしたぁ」
「ごちそーさまでしたぁ」
「ごちそうさまでした。じゃあ終わったら迎えに来るね」

 カランカランカラン。

 あいかわらずイシカーさんたちらぶらぶですやん。
 な〜に言ってんのよぉ。当たり前じゃない。
 やー。顔赤くなってますよぉ。

 なんて声がゆっくりと閉まるドアの向から聞こえてくる。
 後姿が見えなくなるまで時折手なんか振ってやったりしながらカウンターの中に回って溜まっている洗い物を始めるミキ。

 冬の日差しはもう色も穏やかに淡くたそがれ始めようとしている。
 窓の向こうで木枯らしがひゅうと枯葉を舞い上げた。

 カランカラン。

   時計の針がランチタイム終了を差し示そうとした頃、勢いよくドアが開いて若い営業マンが飛び込んできた。
「すいません! まだランチやってますか?」
「はい。まだ大丈夫ですよ」
「あぁ〜。よかったぁ〜」
 空いてるテーブルへと促すと、営業マンはパンパンに膨らんだビジネスバッグをよいしょとシートの奥に置いてどかっと座った。
「あー…。疲れたぁ」
 出された水を一気に飲み干してからメニューを見るとカツランチを注文。ふぅ〜とシートの背もたれに体を預けてぐったりと天井を見上げた。
「お疲れですね」
 ミキが空になったグラスに水を注ぐと、営業マンはちらりと八重歯をのぞかせて笑った。
「そーなんですよぉ。そーなんですけどねぇ、ちょっとした夢があるんですよ」
 そう言うと、ビジネスバッグから一枚のドーナツ盤のジャケットを取り出してミキに手渡した。
「愛の種…」
「すっごくいい歌なんですよ。ほら。かわいいでしょ。まだデビューしたばかりなんですよ」
 鮮やかなブルーを背景に寄り添ってどこか気恥ずかしそうに微笑む5人の女の子。
「僕ね、ずっと戦場にいたから…今度は銃弾を撒き散らすんじゃなくって、愛の種を撒いていきたいなぁなんて思って」
「…」
「歌は国境を超えるって言うじゃないですか。愛がいっぱいいーっぱい詰まった歌を聴いたらもー戦争なんて起こんないんじゃないかなぁって。だからね、がんばって、たくさんの人たちに聴いて欲しいんですよ」
 さぁ〜出かけよう〜と口ずさむと、
「それ、サンプル盤なんでよかったら聴いてみてください」
 さしあげますよって、目を細めて笑った。

 出てきたカツに疲れもふっとんでハイテンションになった営業マン。もしゃもしゃとカツを頬張り、ガツガツとご飯をかきこむと、
「ごちそうさまでした。それじゃ毎度ありぃ!」
 来たときと同じ様に慌しく店を後にした。
「売ってないじゃん」
 ミキはレジにお金をしまいながら苦笑いして呟いた。
 ちょうど針が上がったプレイヤー。レコードをもらったドーナツ盤に換えると針を落とした。


    *


 ルルルルルルル!
 ルルルルルルル!


「はい。喫茶メモリーです」
『もしもし駅前交番です。出前お願いします』

 注文の品はミックスサンドイッチとコーヒー。

「それじゃ出前行ってきまーす」

 カランカラン。

 ベルも歌って見送る。
 一歩外に出たとたん、冷たい冬の風がミキの頬を撫でた。
「さむっ」
 コート着たって手袋したって寒いものは寒い。とはいえ、タクシー捕まえていくほどの距離でもない。
 北風が我が物顔で街を走っているのに、やっぱり子供は風の子なのか、通りの反対側には仲良く手をつないで歩くくるくるほっぺに黄色のスクール帽の女の子と紺色の帽子に半ズボンのスーツの男の子。
 いやぁ、元気だねぇ…。
「今日もめおとまんざいのれんしゅうするでしゅ〜」って走り出した姿に目を細める。
 背中を丸めてぽてぽてと歩くミキの後ろから、
「バレぇーぶーっ、ふぁぃっ!」
「おーっ」
 笛に合わせて声を出しながら走るジャージ姿の学生たち。
 すれ違いざまちらりと目に入った1人の子の揺れる胸にミキはふと自分の胸を見た。
「…」
 いいもん。リカちゃんかわいいって言ってくれるし。
「……」
 さむっと呟いて、遠ざかる学生たちの後姿を見送った。

 小さな駅の姿が見えてくると、小さなバスロータリーの手前に交番が見えてくる。
 中にはデスクで事務作業をしている婦警さんの姿。引き戸を開けて、
「こんにちは。喫茶メモリーです」
「あっ。出前ですね。お疲れ様です。センパイ! センパーイ! 出前来ましたよー」
 ちっちゃい婦警さんが隣の部屋に声をかけると、犬顔の婦警さんが出てきた。
「あぁーお疲れ様ですー。っしゃ。食べるぞー」
 サンドイッチとコーヒーが入ったポットをデスクに置き、代金を受けとる。
「それじゃ、また後で取りに伺いますね」
「はい。お願いします」
「ありがとうございました」と、交番を出ようとしたら、
「あのぉ、すいませーん」
 2本ラインの入った赤いジャージにベリーショートの渦巻きほっぺの女の子が入ってきた。手には大きなボストンバッグ。
「あのぉ。人を探してるんですけどぉ」
 ちらりと聞こえた尋ね人の容姿を説明する様はなんとなくのろけにも聞こえる。
 交番を出てなんとなくロータリーを見たらぽつんとベンチに座ってまったりしている作業着姿のおちょぼ口の男の人。
 枯葉がくるくると渦を巻いた風に舞い上げられてどこか物悲しい。
 忙しなく動いている売店のおばさんに軽く会釈するとミキは喫茶店へと戻った。


     *


 カランカラン。

「戻りましたぁ」

 トレイを置いてコートを脱いで奥に置いてくると、少し緩みかけていたエプロンの紐をもう一度結び直した。
 カウンターでは3軒隣の病院の女医さんがけだるげにティータイム。
 手前のテーブルでは買い物帰りのおばあちゃん。

 カランカラン。
 カランカラン。

「いらっしゃいませ」

「先生、しし鍋食べたいでーす」
「おいらも〜」
「何言ってんの。そんなものあるわけないでしょ」
 グレーのブレザーにエンジのタータンチェックのスカートの制服。入ってきたのはどうやらこの先にある女子高の教師と生徒のようだ。
 空いてる席へどうぞと促すと、
「先生、今日もキレイですよねぇ」
「いやぁ〜先生かっこいいなぁ〜」
「はいはいはい。じゃぁ、ここは先生がごちそうしてあげます」
 やったぁ〜とハイタッチする生徒二人。
「すいませーん。ケーキセット3つお願いします」
「おいらチョコレートケーキ」
「あたしチーズケーキがいい」
「じゃあ、あたしもチーズケーキで」
「あれっ? センセーはビールじゃないんですか?」
「まぁ、それでもいいんだけどねって、こら。さすがにまだ早いでしょ」
 ミキは一通り様子を伺って、
「以上でよろしいですか?」
「はい。お願いします」
「かしこまりました」

 こぽこぽとサイフォンの中のお湯が揺れている。
 温めたティーカップをトレイに置きながら、レコードに合わせてふんふんと鼻歌なんて歌ってみる。
「ごちそうさま」
 女医さんの休憩タイムは終了のようで、会計を済ませると「ありがとうございました」というミキの声に軽く手を振って長い髪を冬の風に揺らしながらけだるげに店を後にした。

「おまたせしました」
 そこはやっぱり女の子。テーブルに置かれたケーキに生徒たちの表情も華やぐ。
 それを満足げに眺める先生。
「こんなに気前いいのに、なぁ〜んで失敗するんですかね。お見合い」
「あっ。それ言っちゃだめだって。ほら、センセーの頭に角が生えてうりゃーって、…あれ?」
「ふふん。いいの。もうそれは過去のこと。決まったの。次のお見合い」
「早っ」
「でもまーた次も失敗したりしてねー」
 ケーキを頬張りながらけらけらと笑うメガネの女の子。隣のちっちゃい金髪の子も今度は一緒になって笑っている。
 むっとしつつも、先生は固くこぶしを握り締めた。
「大丈夫。次こそは」
 と、そこへ…。
「大丈夫じゃよぉ〜。わたしだって結婚できたんじゃ。あんただって焦らなくてもいつかできるよ」
 と、おばあちゃんはよっこいしょと先生の隣に座った。ミキがおばあちゃんのテーブルの紅茶を持っていってやる。
「わたしがおじぃちゃんと出会ったのは、ありゃ〜25のときじゃった。おじぃちゃん、そりゃぁもぉかっこよくってねぇ〜」
 懐かしそうに目を細めるおばぁちゃん。
「おばぁちゃん…25で結婚したんだ…」
「へ〜ぇ。25ねぇ…」
 生徒二人のどこか哀れむような視線が先生に向けられる。
「なによっ。何。なんか文句ある?」
「いえ…」
「別に…ないです」
「まぁまぁ。そんな怖い顔したらせっかくのきれいな顔がだいなしじゃよ。ただでさえ怖いんじゃから」
「ちょっとおばぁちゃん!?」
 掴みかかりそうな勢いで詰め寄る先生におばぁちゃんはまぁまぁと笑って返す。
「若い頃はわたしもいろんな恋愛をしたもんじゃよ」
 と、それからおばぁちゃんの長い長い恋愛談が始まった。

 窓の外には柔らかな金色の光が溢れて、太陽もそろそろお疲れのご様子。
 時計を見ると15時30分を少し過ぎたところ。
 ミキは奥に行ってコートを着てくると、トレイを手にしてドアを開けた。
「お皿取りに行ってきます」

 街路樹や建物の陰が大きく傾き始めている。
 弱くなった日差しに勢いをつけてきた冬の風。
 真っ赤なバラを手にした詰襟の学生服を着た綺麗な顔立ちの学生と冬なのに小麦色な女子高生が寄り添って手をつないで駅に向かって歩いている。
 どこか気恥ずかしそうで初々しい姿がなんとなく微笑ましい。
 届けたときは別の道を通っていこうと、今度は商店街に入れば魚屋さんが威勢よく「オイ! かかぁ!」「なんだぃ! とーちゃん!」と今日も商売に精を出している。
 帰り、買い物してかないとなぁ。
 そんなことを思いながら商店街を抜けて駅前のロータリーに出ると、

 ちりんちりん…。

 風に乗って聞こえたさびしげな鈴の音。
 細い白木の角材の杖を手に白装束の幸薄そうな姉妹が刺すような冬の風を受けながら静かに横を通り過ぎて行った。

 ちりんちりん…。
 ちりんちりん…。

 鈴の音は冷たい風に乗って夕焼けの空の中に消えていった。


     *


 交番からポットと皿を引き取って戻ってきたら、ちょうどいい時間。
 16時。今日は早番なので本日のお仕事終了。
 時計の針が12の上を過ぎたのを確認してからエプロンを外してバックヤードに置いてくると、トートバッグを手に戻ってきて、同じく早番のリカのお迎えが来るまでコーヒータイム。
 ママと話をしながら、ゆっくりとちょうど1杯飲み終わった頃…。

 ブン…。

 赤いミニが店の前に止まった。
「じゃあ、お先に失礼します。お疲れ様でした」
 ミキはコートを着ると軽やかに立ち上がった。

 カランカラン。

 ベルが歌って見送る。
 小走りでミニの助手席のドアを開けて中に飛び込んだ。
「さむーい!」
「お疲れ様。ミキちゃん」
「お疲れ様。リカちゃん」
 そしてお約束のように唇と唇が触れ合って…。

 ブン!

 エンジンがうなってミニがゆっくりと走り出す。

 夕焼け小焼けの帰り道。
 長い影を引き連れて家路へと向かう。

 信号待つ間、なにげなく通りを歩く人たちの姿を目で追いかける。
 買い物帰りの割ぽう着姿のお母さんの両手には痛んだ着物姿の子供たち。お兄ちゃんの手には買い物かご。
 弟が前を歩いていた父親の姿に気がついて大きな声で呼んで駆け出した。
 大工道具を担いで振り向いたお父さんが抱きついてきた弟の頭にぽすっと手を乗っけた。
 手をつないで並んで歩く親子の長い影。
「なんかいいね」
 リカが呟く。ミキはぽんっとリカの頭に手を乗っけるとぐしゃぐしゃと撫で回した。
「ミキちゃん!?」
「ふふっ」
 ミキがいるってば。
 …うん。

 信号が青に変わった。
 赤い夕日を受けながら、滑り出すようにゆっくりと動き出したミニ。
 青から藍色へと変わり始めた東の空の中には、ひっそりと真っ白な一番星が輝いていた。  

 

(2007/2/1)

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