特訓と午後の空

 ギラギラと太陽が燃える。
 焼け付く鉄板のような枯れたグラウンド。
 大の字になっていい具合にこんがり焼けたレイナ。

 バシャッ!

「ぶはぁっ!!」

 ばっと跳ね起きて目に飛び込んできた青い空。真っ白い閃光。
 そして、ブリキのバケツを手にしたサユミ。
 バケツのふちから零れた滴がキラキラと輝いてポタリとレイナの額に乗っかった。
「…」
 ぶるぶると頭を振ってかけられた水を飛ばしたら、
「ネコみたい」
 とサユミの一言。むうっと唇を尖らせて睨み付けるレイナ。どこかでにゃあとれいにゃが鳴いた。
「何すっとぉ!」
「水かけたの」
「だぁかぁらぁ!」
「だって、いいって言ったもん」
「はぁ!?」
「フジモトさんとイシカーさん」
 サユミがくるっと食堂の窓の方に顔を向ける。その先を追いかけると、窓枠に体を預けてニコニコと笑ってるミキとリカ。
「っていうか、かけろって言われた」
「…」
「ほら。日射病になっちゃうから、いこ」
 サユミが手を差し出すと、レイナは仏頂面をしたままガッと手を掴んで立ち上がる。
 そのままサユミに手を引かれてとりあえずとてとてと兵舎の屋根の下にできた日陰に入ると、さっきまでミキとリカがいた窓の下にぺたんと足を投げ出して座った。
「ちょっと待ってて」
 サユミは座らずにそのまま勝手口から食堂の中に入って行った。
 なんとなくその後姿を見送って、ふぅ…とこぼれ落ちたため息。
「ん…?」
 ふと、膝の上に重さを感じて見てみると、「にゃ」とれいにゃがうれしそうな顔で見上げていた。
「こらこら。重いってば」
 とか何とか言いながら、よっこいしょと抱き上げて胡坐をかくとれいにゃをその上に乗っけた。
 ごろごろとノドを鳴らしながらごそごそとポジションを見つけると、くるっと丸まって嬉しそうにレイナを見上げて目を細めるれいにゃ。くしゃくしゃと頭をなでてからこしょこしょとノドをくすぐってやる。

 地平線に連なる入道雲。
 そのまま顔を上げていくと、うざいぐらいに力強い夏の輝き。
 申し訳程度に張り出した屋根の影の黒と光の躍動感を濃縮した鮮やかなスカイブルー。

 ふぅ…。
 レイナからまた一つ零れでたため息。
 れいにゃの顎を撫でていた指先がなんとなく動きを止め、手がぽすんとそれとなく背中にのっかると、れいにゃはうにゅ…と鼻先を丸めた自分の体にうずめた。
 ぼんやりと眺める空の青さにすーっと意識が吸い込まれる。
 ぎしぎしと悲鳴を上げる体。のしかかってくる鉛のようなけだるさ。

 きょーもいーテンキばい…。

 目を閉じたら、二度と帰ってこれないんじゃないかな…。
 ふと、そんなことを思うくらい重たくなった体が、陽射しを和らげる日陰の心地よさに今度はゆるゆるとまぶたを下ろさせようと試みる。
 膝の上のれいにゃのぬくもりが呆れ返るくらいよく晴れた夏らしい夏の暑っ苦しさにも関わらず、レイナの心をやわらかく包み込んでほぐしていく。
 のんびりと流れる時間と広々とした鮮やかな空の色。ささやかにそよぐ生ぬるい風。
 たいした時間もたってないのに、ギラギラまぶしい夏の光はレイナの白かった泥だらけのTシャツと髪をそこそこの生乾き程度まで乾かしていた。

 ……。

 ふーっとまぶたがくっつきかける。

「レイナ」

 すうっと目に飛び込んできたブリキのマグカップ。
 顔を上げると、左手に自分の頭より大きい淡い金色のヤカンを持ったサユミがいた。
「ありがと」
 受け取ってマグカップに口をつけると、なんだか微妙に生ぬるい水。けれど今のレイナにはそんなことはささいな問題で、一気飲み干して、
「うはーっ!」
 空に向かって吐き出した感歎の声。
「もっといる?」
「うん!」
「…」
 サユミはふと考えて、レイナからマグカップを受け取ると中に注ぎ、
「はい」
 と、マグカップではなくそのままヤカンをレイナに突き出した。
「あぁ。ありがと」
「どーいたしまして」
 隣に座ると、サユミはにこっと笑ってマグカップを掲げる。
 レイナはコツンとマグカップにヤカンを当てると、注ぎ口に直接口をつけて呷るように傾けた。

 んぐっ、んぐっ…。

 レイナのノドが動く。
 サユミがめいっぱい水が入った4リットル入りのヤカンの底を手で押さえて支える。

 んぐっ、んっ…。んぐっ。

 夢中になってエライ勢いで水を飲むレイナを見ながらぼんやりとしていたら、
「んがぁっ!? ごほごぼっ! サッ…サユッ! がはっ! ごほっ!」
「んにゃぁっ!」
 突然降ってきた大粒の雨に慌てて飛び起きたれいにゃがレイナの膝の上から飛び出した。
 その声にハッとサユミは我に返った。
「あっ!? ごめん!」
 つい上げすぎたらしく、わっと勢いよく溢れ出した水を飲みきれず、陸にいながらにして溺れかかったレイナがノドを押さえて咳き込んでいる。
「ごほっ…。ごほごほっ!」
「ごめん。大丈夫?」
 さすがに申し訳なさそうに背中をさすって顔を覗き込むサユミにコクコクとうなずいて返すと、とりあえず抱きかかえていたヤカンを脇に置いた。
「…」
 よくよく考えれば顔色一つ変えずに4リットルの水ががっちり入ったヤカンはそうとうな重さだったりするはずである。それを片手で渡してきたサユミの腕力にふと、やっぱ軍人なんやなぁ…などと妙な関心をする。もっとも自分も片手でそれを何気なく受け取ったりしたわけなのだが。
「レイナ?」
「んあぁ。なんでもなか」
「あっ。もぉ。見とれちゃったんでしょ。ほら、私かわいいから」
「はいはい」
 にこっと微笑むサユミをいつもどおり適当に受け流すと、レイナはぺたんと壁に寄りかかった。

 ぼんやり見上げる空の青はいつもどおり、何の変哲もない夏の青。
 それはもう、眩しいくらいにキラキラとギラギラと。

「サユ?」
「うん?」
「レイナ、どれくらい気絶してた?」
「うーん…。どれくらいって……」
 サユミはちょこんと首を傾げると両手でしっかりと持ったマグカップを唇につけたまま、空を睨むようにして思い返してみた。
「にゃぁ」
 とととととっ…とれいにゃがレイナのところに戻ってきてまた膝に乗ってうずくまる。
「あぁ…。5分くらい?」
「5分?」
「うん。イシカーさんに呼ばれて射撃場に行こうとしたら倒れてるのを見つけて…。それで、駆け寄ろうとしたら調理場からイシカーさんとフジモトさんに呼ばれて…」
「で、サユが水をかけたと」
「うん。そんな感じ」
 こくりとうなずくと、レイナは眉をぐっと寄せて唇をへの字に曲げた。
「なんか…よくわからん」
「それはこっちだってば。いったい何があったの?」
「あぁ…」
 疲れきってまどろみ始めた体につられてうとうとしだす頭を起こそうと、レイナはヤカンを手にしてまた直接注ぎ口から水を二口ほど飲んだ。
「よけい眠くならない?」
「んー…」
 そう言われるとなんとなくそんな気もする。だったら言わないでくれればいいのに…と、隣でマグカップでのんびりと水を飲むサユミをじっとした目でにらんだ。
「レイナ?」
「あぁ。うん」

 くるんと世界が回って、どんって背中に強い衝撃。
 首をねじ込むように手で押さえつけられて、ぱっと目の前が暗くなった。

 そこから先の記憶がなくて、目を開けたらサユミがいた。

「たしか……」

  『なんだよ。もうへばったのかよ』

   そんなミキの一言がきっかけだった。

  『たいしたことねぇなぁ。口ばっかじゃん』
  『そっ…そんなことなかっ!』
  『ふーん。ミキにコテンパンにされてるのに?』
  『…』
  『まだ一発ももらってないんだよねぇ。えーっと、今日で1週間かぁ』
  『…』

   どんなにどんなに向かっても気合を込めても、ミキに拳一つ掠めることができない。
   ロリポップの棒をふらふらと動かし、レイナの渾身の一撃をあっけなく交わして拳と蹴りを3つほど。キツイお返し。
   それでもミキが明らかに加減をしているのが嫌でもわかって、悔しさが言い表せないほど胸に広がっていく。

   募るばかりの苛立ちと不安。
   じわっとこみ上げた感情が目の端から零れそうになったから、ぐいっと袖で乱暴にぬぐった。

  『レイナ、あんたさぁ、格闘にそんな自信あんの?』
  『あるっちゃ! レイナ、誰にも負けんたいっ!』

   噛み付くように言い返したレイナにミキはふと目を細めて、ふらふらと遊ばせていたロリポップの棒をぴたりと止めた。

  『じゃあさぁ』

   ミキはふっ…と視線を流した。
   追い駆けた先にいたのは射撃場へ向かうらしいリカの後姿。

  『レイナ』

   くいっと顎で示されて、レイナはぐっと拳を握り締めて立ち上がった。

  『パワーないからねぇ』
   と、いつか昔の特訓のことを話してくれたノゾミからリカが格闘や白兵戦は苦手だと聞いている。

   見たことはないけれど、みきねぇみたいに凶暴じゃないはず…。
   苦手って言ってたし…。

 それが間違いだったと知った13時27分。蒸し暑いのどかな夏のひと時。
 レイナのカラダは見事に宙に翻って乾いた地面に叩きつけられた。

 鍛えられた兵士の背後に立ってはいけません。

 瞬時にスイッチが入ったリカの手がしっかりとノドを掴んで押し潰すように締めにかかっているのに気づいて、ミキは慌てて引き剥がした。
 その時きっちり口付けしているのをサユミは思い出して、ふむ…と意味もなく一つうなずく。
「なるほどねぇ…」
 我に返ったリカが大の字になって横たわるレイナの頬を軽く叩いても起きないことを確認すると、二人はそのまま勝手口へ。
 そんな二人を目で追いかけつつ、レイナのところへと思った矢先に呼ばれたサユミ。

  『でもさぁ、師匠がオバチャンだからさぁ…』

   徹底した基本第一。どんな時でも全力主義。
   そして、力がなくてもいかに勝つか、生き延びるか。その末に体得した関節技と相手の力を利用した投げ技。

  『それにさ、リカちゃんって』

 極度の負けず嫌い。

 そんなことを言ってたよねぇ…とサユミは思い出しながら、また水を一口。
 レイナは思い出してはぁ…と重いため息を吐いた。
「んにゃ?」
 と、れいにゃが首を傾げてどんより曇ったレイナを見上げるから、なんとなく丸まった体を撫でてやる。
 レイナの膝の上でぐるぐるとノドを鳴らして目を細めて笑うれいにゃの顎をくすぐると、サユミはぽつりと言った。
「やっぱすごいよねぇ」
「うん…」

 悔しいけど、悔しいからこそ、認めざるえない事実。
 だてに4年も戦場に立っているわけではない。
 同期4人の中では劣ったかもしれないが、だからって弱いわけではない。

  『よく4人で動けなくなるまで特訓したよ』

   珍しく真顔で語るノゾミ。
   体はあちこち痛かったけど、教育指導役からの特訓を終えた後も自分達で続けた。

  『4人だったらさぁ、負ける気しないし』

   力のノゾミ。テクニックと機転のアイ。総合力の高いヒトミ。粘りと安定感のリカ。
   どんな相手であろうと、何人であろうと。

 あの時、マコトもサユミもレイナも、そこに4人の絆と強さを感じて、何を言っていいのかわからなかった。
 ただ、自分達もそういう風になれればいいな…と、そう思った。
 そして話を聞いた後、マコトはいつものように桜の木の下で手紙を書き始め、レイナはミキのところに行き、サユミは射撃場に行く決意をした。

「サユ…」
「ん?」
「イシカーさん、やさしい?」
「ううん」
 間髪入れない即答に思わずサユミを見るレイナ。
 ちらりとそんなレイナの目を見て、サユミは淡々とマグカップの水を飲み干した。
「ちっともやさしくないよ。むしろすっごく厳しい」
「へぇ…。そう…なんだ」
「うん。でも、厳しいけど…楽しいよ」
「…楽しい…」
 呟いて、レイナはれいにゃを撫でる手を止めた。
 コトッとサユミが置いたマグカップの底が乾いた音を立てる。
「イシカーさん、技術ばっかりじゃないから…。教えてくれるの」
 サユミは手でライフルを構える振りをして、ゆらりと熱気に揺れるグラウンドをじっと見据えた。
「…」
 たしかまだ3日ぐらいのはず。だけどすでにその横顔はスナイパーの顔になりつつあるような気がして、ぎゅっと胸を締め付ける痛み。
 サユミはすっと構えを解いた。
「これから嫌んなっちゃうかもしれないけどね」
「…」
「でも、追いつきたい」
 青い空の下、地平線を囲むように広がる入道雲を見つめるサユミの瞳の強さ。
 レイナはぎゅっと口を結んで、
「…負けんたぃ」
 拳を固く握り締めて呟いた。
 サユミはうつむいたレイナにふふっと微笑んで空を見上げた。

 申し訳程度の屋根の日陰の向こうには、夏を凝縮した青い青い空。
 吸い込まれるようにどこまでも真っ青で、のびのびと太陽を泳がせて…。
 そんな空を、エリは今日も飛んでいるのだろうか。
 明日は確か、さくら隊は出動予定になっていたはず。
 自分達も明後日には、こんな気持ちのいい青い空の下、長袖の迷彩にずしりと肩に食い込む装備品のデイパックを背負って血に飢えた大地を這って行く。

 そういえば…今年はずいぶん日焼けしたなぁ。
 サユミは真っ白なTシャツからのびた自分の腕を見つめて、なんとなく苦笑いを浮かべた。
 隣にいるレイナも真っ黒に日焼けして、ぼんやりと空を眺めている。
「サユ」
「ん?」
「エリ、元気かな?」
「元気だよ」

 ふわりと風が泳いで、二人の前髪をふわりと持ち上げて去っていく。
 れいにゃがうにゅと器用に狭い膝の中で丸まった体を動かして二人を見上げる。

「サユ…」
「ん?」
「エリ、がんばってるかな?」
「がんばってるよ」
「…」
「…」
「ねぇ、サユ」
「ん?」
「ねぇ…」

 負けて…ないかな?
 がんばってるかな?

 言葉にできなくて、だけどサユミはにこっと微笑んでいて、よしよしって頭を撫でてくれたけど、なんか気恥ずかしくってついそっぽを向いた。

 軍学じゃ格闘は誰にも負けなかった。
 エリにもサユミにも勝った。
 けど、上には上がいて、絶対的な経験とかでは勝てないかもしれないけど、自信はあった。

 見えない、当たらない、届かない。
 ころころと転がる自分。見下ろすミキ。

 やっぱりすごかった。
 何が違うんだろう? 考えても答えなんか出るわけもなく、だから足掻いてみたところでどうにもならない。
 悔しい。悔しいけど…。

「サユ」
「ん?」
「レイナたち…すごいところにいるっちゃねぇ」

 きっとそれまでだったら得られなかったものがここにはたくさんある。

   憧れて、田舎にいたあの頃は自分が大将で、腕に物を言わせて引き連れた男の子達と走り回って…。
   2軒隣の家のじぃちゃんが取ってた軍の広報機関誌が楽しみで、ニュースで娘。隊を見て絶対入るんだって誓った。
   入隊が決まった日、
  『親分の門出じゃあ!』
   子分のみんなが胴上げしてくれた。

   サユミ、エリ。
   絶対に勝てると思った。
   おもしろいヤツらだと思った。

   訓練は厳しい。くじけた。泣いた。
   肌で感じる戦争。飛び交う銃弾と悲鳴。爆音。
   銃を構え、走る先輩達の背中。
   すごいと思った。

   震えた。怖かった。逃げたしたかった。
   その度に3人で肩を寄せ合ってがんばった。踏ん張った。

「そうだね」
「うん…」

 エリが飛行訓練生に抜擢され、半年後、分隊でさくらへ。
 サユミはスナイパーとして歩き始めた。

 自分には何があるんだろう。

 飛行機乗りはエリートだというらしい。
 狙撃じゃ適わなくなるかもしれない。

 レイナはじっと自分の手を見つめた。

「そういえば…おもっいきし引っ叩かれたんよねぇ」  

   あの時のリカの強い眼差し。
   叩かれた痛みと入れ替わりに恐怖が消えた。
   また無言で銃を構えるリカと入れ替わりに、今度はミキにぐいっと胸元を掴まれた。
  『死にたくねぇんだろ?』
   ドスの利いた低い声。ごりっと噛み砕かれたロリポップの音。

  『叩かれた意味と言葉の意味を考えな』
   ミキに投げ捨てられた体を受け止めたケイが、ぎゅっと強く抱き締めた後に言った言葉。

   前を見ろ。
   死にたくないのなら、後ろを向いてはいけない。

「あんときより…強くなっとぉかな?」
 きゅっと拳を握ってなんとなく呟いたら、ポコッと頭を叩かれた。
「サユ?」
「おバカ」
「はぁ!?」
「おバカって言ったんじゃっ! ボケ!」
 かわいい顔してムッと頬を膨らませたサユミのド迫力の一言に思わず面食らうレイナ。
 サユミは身を乗り出すように呆気に取られるレイナの脇においてあるヤカンを手にすると、その注ぎ口から直接呷るように水を飲んで、乱暴に地面に置いた。
「サッ…サユ?」
「…おバカ」

 毎日毎日泥だらけになって向かっていくレイナ。
 日に日に鋭くなっていく動き。
 訓練を終えた後のやさしいミキの眼差しに、たぶん気づいてはいないんだろう。  

 届いた手紙にあっけらかんと書かれているエリのがんばり。
 ベースキャンプに上がってくるさくら隊の戦果。
 だけど、あっけらかんとした文面の中に見え隠れする不安。そして恐怖。

 追いつかないと。追い越さないと。
 がんばらないと。
 負けたくない…と、サユミは今日もライフルを手にする。

「必死なんだから…」
「…」
 拗ねたようなサユミの横顔。レイナは大きく肩を揺らしてため息をつくと、「そっか…」と呟いて苦笑い。
「そうだよ」
 くすっと微笑んで、サユミはまた空を見上げた。

 いつだって空が青いのも広いのも変わらなくて…。
 へばったり、うれしく飛び上がったり、辛くて凹んだり、悲しみに暮れたその時も、いつだってそこにある。
 そして、隣にはいつだって二人がいる。

   生きていくことを考えて軍に入った。
   救護部隊を希望するには年齢基準がまだ適わなくて娘。隊を希望した。
   兄と父がいた戦場。母と姉を奪った戦争。
   それがどんな姿をしているのか、しっかりとこの目で見たいと思った。
   それを話した時のリカの穏やかな、だけどひどく寂しげな瞳が今も印象に残っている。

 地平線の上に乗っていた雲が気がつけばゆっくりとこっちに向かってくる。
 ふいに出てきた風は南西からやや北東へ。
『あぁ、夕立が来るかもしれないわね』
 入道雲は雷雲だからね。あっちから来ると夕立になるわよ…と、いつか、西の方を指差して教えてくれたケイ。
 サユミはふと向かってくる風の方に顔を向け、そして空を仰いだ。
 そういえば、まだあれから射撃場で声を聞いたことがないな…。
「…」
 次々とこっちに向かってくる大きな雲。
 なんとなく強くなってきたように感じる風に舞い上がった前髪を押さえるように掻き揚げた。

 とんっ…。

「ん?」
 肩に重みを感じて目を向けると、れいにゃを膝に乗っけたまま無邪気なあどけない顔ですーすーと眠ってしまったレイナ。
「あーあぁ」
 疲れてるんだね。お疲れ様。
 サユミはふわっと笑って、レイナの頬にそっと手を添えた。
 がんばったね。レイナ。
 薄く開いたままのレイナの唇のすぐ真横にキス。唇は起きてる時にとっときます。
「んぅ…」
 と小さく唸ったが、レイナは相変わらずすーすーと深い眠りの世界に落ちたまま。
「…バカ」
 とは言ったものの、まぁ反応あったからよしとしましょう。
 サユミはそっと髪を撫でて抱き寄せると、レイナの頭を自分の膝の上に乗っけた。
 体を倒したことで膝が崩れたので、れいにゃは横になったレイナのおなかにぴったりとくっついて転がるとまた目を閉じた。

 雲が太陽を隠して、生ぬるい風を冷ましてくれる。
 その心地よさにサユミも目を閉じた。
 次の軍学のお昼…中庭で食べれればいいのになぁ。レイナとエリと3人で…。
 目を開けたら、真っ白い大きな雲。
 さくら隊は明日、あの雲よりもうんと高いところで戦うんだ。
「エリ、がんばれ」
 呟きは風に運ばれて、届けばいいなと願った。

 あれだけ熱くて眩しかった陽射しが和らいで、昼寝するにはちょうどいい日陰。
「サユ」
 頭の上から呼ばれて振り向いて顔を上げると、窓枠に身を乗り出すように体を預けているリカとミキ。
「寝ちゃった?」
 ミキが膝の上のレイナを見て穏やかに目を細める。
 リカは一緒に眠っているれいにゃにくすっと笑みこぼした。
「ふふっ。なんか兄弟みたいだね」
「リカちゃん、それ言うなら姉妹だって。れいにゃメスじゃん」
「あっ、そっか。でも、ふふっ。気持ちよさそう」
「風が出てきましたからね」
 サユミはレイナの髪をなでながら、もう一度空に目をやって微笑んだ。
 ミキはとりあえず辺りを確認してから窓枠に足を乗っけると、
「ちょっとぉ! ミキちゃん!」
「いいから。よっ…と」
 そのまま外に飛び降りた。

「こら! ミキ!」

「あっ! カオたん!」
「やべ。見られてた」
 つかつかと向かってくる足音。
 リカと顔を見合って、ミキがぺろっといたずらっぽく舌を出して笑う。
 リカはやれやれと肩をすくめると、くるりとカオリの方を向いて唇に人差し指を当てた。
「カオたん、しーっ…」
「リカ?」
 怪訝そうに顔をしかめたカオリがやわらかく微笑むリカの視線を辿っていく。
 なるほど…と、カオリは肩を揺らしてため息を零すと、窓枠に上半身を乗っけて眠っているレイナの顔を覗き込んだ。
「寝ちゃったのか」
 サユミの柔らかい太ももを枕にして気持ちよさそうに眠るレイナ。
 ミキはそっと屈んで起こさないようにレイナの体の下に手を差し入れた。
「ほら、なんか曇ってきそうだから、部屋に連れて行こうと思って」
 『いい?』とサユミに目で確認して、サユミが傍らで一緒に寝ているれいにゃを抱き上げてにっこりとうなずいて返すと、よいしょとミキはレイナを抱き上げた。
「それじゃ、ミキが部屋に連れて行くから」
「うん。お願いね」
 カオリはそう言うと、目を細めてふんわりと微笑んだ。
 じゃあと背中を向けたミキに、カオリはその素敵な微笑のまま言った。
「あと、ミキ、あんた今日のおやつなしね」
「ええっ!?」
 ぴたりと動きを止めて、レイナを抱えたままカオリに詰め寄るミキ。
 リカはそれでも目を開ける気配のないレイナの頭をサユミと一緒に撫でながらくすくすと笑った。
「ミキちゃん、あんまり大きい声だすと、レイナ起きちゃうよ?」
「いや。そーゆーことじゃないから。それよりどーしてですかぁ!」
「だって、窓から外に出たもん。それとこれとは別だから。女の子がそんなはしたないことしちゃいけません」
 「ね」、と、リカとサユミに同意を求めるように首を傾げてみせると、二人もそれに合わせて「ね」とちょこんと首を傾げた。
「ちょっとぉ…。リカちゃんまで」
 拗ねるミキ。リカはそんなミキの頭を撫でると、そのまま頬まで手を滑らせて、ちょっとだけ身を乗り出した。
 軽く唇と唇が触れ合う。
「ね。怒んないの」
「…わかった」
 ちょっと釈然としないような顔をしたまま、レイナを抱えて兵舎の入り口へと歩き出すミキ。
 その後姿を見ながら、カオリはまるで女神のようにやさしい微笑みで言った。
「リカ、あんたもおやつ抜きね」
「えっ!?」
「じゃ、サユ、射撃の特訓しよっか」
「はい!」
 元気のいい返事を笑顔で受け止めて、つかつかと食堂の出口に向うカオリ。
「えー! ちょっとぉ! カオたん!?」
 パタパタと後を追いかけるリカ。
 二人のやりとりにくすっとサユミから零れ落ちた笑み。
「さぁ。私もがんばろ」

 焼けたグラウンドを冷ます風。
 まもなく射撃場から聞こえてきた銃声。
 のどかな夏の午後が大きな雲と一緒にゆっくりと流れていく。

 その日のおやつはカオリ特製のレアタイプのチーズケーキだった。

 

 

(2004/9/25)

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