消灯、就寝は22時。
時計の針は23時ちょうどを5分ほど回ったところ。
キシ…キシ…。
忍ばせる足音。
キシ…。
1つのドアの前で立ち止まると、マコトは薄暗い廊下をそろーっと見回した。
しんと静まり返った廊下。
木の板の床。突き当たりの窓の向こうにはそれとなく星空。
なんとなく踏ん切りをつけるようにふんと息を吐くと、
コンコン!
木のドアを小さく2回ノックした。
…。
…。
「 …」
反応なし。
もう1回ノックしようと手を上げかけて、ふと迷って立ち尽くす。
こまったなぁ…。
もう眠っちゃったのかな…。
でもやっぱり…と構えた手は軽く握られたり開いたり。
…。
たしか、このくらいならまだ起きてるって言ってたような…。
でも…イシカーさん、よく寝る人だしなぁ…。
…!
「ん?」
ミシッ…っていった。ミシッ…って。
その音の出所を探ろうと耳を澄ましてみると、なにやら部屋の中からぼそぼそと話し声が聞こえる。
マコトはそっとドアに耳を近づけた。
「…ちょっ……ミキちゃん…いかないと」
「ダメ」
「もぅ…。待ってるって」
「…んーん。待ってないから」
…待ってますってば。
「ね? ほら」
「…えぇー。…………わかった」
っていうか…あの…。
声がぴたりと止まる。
ギシ…。
床板が軋む。
そして、ぺたぺたと近づいてくる足音。
あまりに静かな空気に気圧されて、思わずぐっと息を呑む。
ぺたぺたぺた。
足音がドアの板の向こうで止まった。
キイッ…。
「なに?」
地を這うような低い鋭い声。
わずかに開いたドアの隙間から顔をのぞかせたのは言うまでもなく機嫌の悪いミキだった。
「そっちこそ」
つい呆れ顔でポンと投げ返した言葉にくわっとミキの眉が釣りあがる。
マコトがしまったと思ったときにはもうすでに遅かった。
「あぁ?」
なんだって?
鋭利なナイフそのものなミキの眼光がグサリと突き刺さってついつい後退る。
そのままミキがずいと詰め寄ろうとした…その時、その背後からすうっと現れた手が2つ。
「んっ!?」
絡みつくように口を塞いでミキの首に腕が巻きついた。
「んっ! んー! んんーっ!」
押し付けるように手で塞がれた口から漏れるくぐもったミキの抗議の声。
背後から現れた腕が問答無用とそのままずるずると部屋の中に引きずり込んでいく。
キィ…。
「んーーっ!! んんーっ!」
パタン……。
ドアが閉まって、ほけーっと立ち尽くすマコト。
「あぁ…」
何やら微かにジタバタと聞こえるような聞こえないような…。
あっ…。今ぼすっ…って聞こえた。ぼすっ…って。
「…」
とりあえずくわばらくわばら…と手を合わせる。
そして廊下に再び戻ってきた静寂。
消灯時間以降は当然ながら基本的に外出厳禁。
まだ誰かしら起きてる人はいるんじゃないかとは思うけど、この静けさ。妙に落ち着かない。
まとわりつく夏の夜のぬるい空気が暗闇の不気味さを見事に盛り上げる。
心もとなくなって、きょろきょろと所在無げに辺りを見回していたら、ふと、一つのドアに目が止まった。
「……」
ケンカなんていうものは、始まりはささないものなのである。
でも積もり積もって重なって、爆発したら…あぁ。なんかね。あとには引けない。
鬱積していた“それまで”が意地っ張りとひねくれ者を作り出す。
『マコトのばかーっ!』
ちくりと胸を刺す痛み。
『のんつぁんのわからずやっ!』
たぶん今更のようにあんなこと怒鳴る必要もなかったんだろう。
でも、気がついたら声は出ていたわけで、その前にもうすでに目もあわせなかった。
手が出なかっただけでもよかったのかな…。
いや、いっそ殴ってしまった方が…。
でも、乙女隊で一番の腕っ節のノゾミ相手にそんな勇気もないんだけど…。
「…」
寝てるかな?
藍色に染め上げられた兵舎の廊下。
キィ…と擦れた音。
振り向いたら、
「マコト」
ようやく開いたドアの向こうでリカが笑っていた。
「ごめんね。お待たせ」
「いいえ。すんません。遅くに…」
「ううん。誘ったのはあたしだから」
そう言って、リカはマコトを部屋の中に招き入れようと一歩内側に下がってドアを更に少しだけ開いた。
『んッ! んー! んんーっ!』
『んーーッ!! んんーっ!』
ええっとぉ…。
ふと脳裏を掠めた暗闇よりの使者。
一歩踏み出して、目の前に広がる闇にぴたりと足が止まって次が出ない。
きょとんと首を傾げるリカ。
「マコト?」
「あぁ…。はいはいっ…!」
…バケモノはいないんだ。うん。しかもその正体はわかってる。
なのにマコトはコクコクと何度も大きくうなずいて、そそくさと中に入った。
薄暗い部屋の中、すぐに目に飛び込んできたのはきゅう…とのびてベッドに転がっているミキの姿。
ごくりと思わず息を飲んだ。
パタン…。
ドアが閉まって、びくっと肩が震えた。
「適当に座って」
何気なくポンと肩に置かれた手。
「ぅひゃぁっ!」
「きゃあっ!」
ふうっと膝から力が抜けてペタンと座り込んだマコト。
リカも胸の前で手を組んだまま、目を丸くして固まっていた。
「まっ…マコト!?」
「あっ…あぁ…えーとそのぉ…えへへへへ」
笑ってごまかすって言うわけではなく、なぜだか笑うしかない…そんなとほほなマコトの笑顔。
ふとベッドの端が視界の隅に映ったから目をやれば、きゅうと伸びていたはずのミキがぶるぶると小刻み震えていた。
「…」
リカはやれやれとため息をついた。
「もぅ…。どーしたの?」
「あぁ。ほんっとになんでもないです」
たとえ一瞬でもバケモノだと思ったなんて口が裂けても言えない。
ベッドの上のミキの震えがさっきより大きくなっているように感じるのは気のせいだろうか?
それにまだ気づいていないリカは、すっとマコトに手を差し出した。
「ほら。床の上じゃなんだから」
「あぁはい。でも、あの…」
「ん?」
首を傾げるリカ。マコトはえへへへ…と笑った。
「腰…抜けちゃいましたぁ」
「…」
「くぅっ、ぅふっ、ぅふふっ…ぅふふふはははははっ…」
マコトとリカの目がゆっくりと笑い声の方に向けられる。
「ぅはっ…ぅふふはっ……」
「……」
「……」
「ぁあっははははははははははははははははっ!」
腹を抱えて爆笑するミキ。
リカとマコトはゆっくりと互いの顔を見合わせた。
「…どうする?」
「…どうします?」
「っあっははははははっ! おっかしーっ! あー…ははっ…おなか痛い…。ぁははっ」
やれやれとリカとマコトから零れ落ちたため息。
ぱきっとリカの指の骨が鳴った。
……
…
ようやく笑い袋から人間に戻ったミキはリカの膝枕でご機嫌だった。
ノックした後の殺気立った目はどこへやら。ちょっと呆れ顔のリカに髪をなでてもらって満足そうに笑っている。
「ごめんね。マコト。なんかあたしもちょっとよけーなことしたよね」
眉毛を下げて情けない顔で笑うリカに、マコトはぶんぶんと首を横に振って笑った。
「そんなことないですよぉ。あたしも腰抜かしちゃいましたし」
そしてまたミキがくすくすと笑いだし、堪えようとリカのおなかにぎゅうっと顔を押し付けてうずめた。
それがちょっとくすぐったいのか、ぴくりと体をすくめてリカは「もぅ。ミキちゃん」ってたしなめると、
「ごめんね。マジメな話しにきたのにね」
って、困ったように笑った。
「ううん。いいんですよぉ。なんか…へへへっ」
「ん?」
「うん。いいんです」
ちょっと、ホッとしたかも。
それはここが魔界じゃなかったとかホラーハウスでもなかったとか、目の前で笑ってるかわいい人がバケモノじゃなかったとか、そうゆうことではなくて。
「なんか…少し楽になりました」
「そぉ?」
首をかしげて、まだ不安げなリカ。
ミキも埋めていたおなかから顔を離してにこりと笑った。
「なら、よかったじゃん。でもさ、どーしたの? こんな時間に」
「そーゆーフジモトさんこそ」
「んー。いいじゃん。別に。それとも何かモンクある?」
「いいえ。なんっにもございませんっ」
きらりと光ったミキの眼光にぶんぶんと片手を仰ぐように振ってぱっとマコトの口から飛びだした否定。
リカはやれやれと笑った。
「もぅ。ミキちゃん。あんまりいじめないの」
「えー。だってさぁ…」
わざと拗ねて見せて唇を尖らせるミキがかわいいとマコトは思う。そんなミキに微笑むリカの髪をなでる手つきは穏やかでやさしい。二人の間にあるあたたかいやわらかな空気。
そうなんだよなぁ…。
「マコト?」
「あ、はい?」
「うん。どうかした?」
「あぁ…。なんかいいなぁ…って思って。でも…」
「でも?」
リカの手が止まる。ミキの目が言葉を促すようなリカの微笑みにそれとなく向けられる。
マコトはすっと目を床に落とした。
「あぁ…うん。なんて言うか…」
結局なんて言っていいのかわからなくて、マコトは困ったように笑った。
「…そっか」
「…イシカーさん?」
「うん…。ねえ、マコト?」
「はい?」
「タカーシから…アイちゃんから手紙来たの、いつ?」
「おとといです」
「そっか…」
「…リカちゃん?」
リカの微笑に少しだけ影がさしたような気がして、ミキがそっとリカの頬に手を伸ばす。その手を取って、きゅっと握るとリカはもういちど「そっか…」と呟いて小さく笑った。
『のんつぁんのわからずやー!』
食堂にそんな声が響き渡ったのは2日前。
乱暴にドアを開けて飛び出して行くノゾミ。
マコトは固く拳を握り締めて唇を噛んでいた。
そもそも、その前の日から目も合わそうとしない。
ぴりぴりと肌を焼くような殺気と緊張感。
その日の夕食は凍てついた空気の中で進んでいった。
そんな空気に気圧されて小さくなって黙々と食べるレイナとサユミ。
せっかくの楽しい食事が殺伐としてしょんぼりとするカオリ。
リカとミキはそれを見てとにかく場を和まそうと、
『お肉すきすき』
『おなかすきすきー』
っと、とりあえず歌ってみたら、同時に『やかましいっ!』『うるせぇっ!』と言わんばかりの目でにらまれた。
『うわ…』
『こわっ…』
さすがのミキでも震えあがった。
そしてよりいっそう空気がイライラと殺気立っていった。
たしか、あの時もマコトのチノシャツの胸ポケットには空色の便箋。
食堂を飛び出していくノゾミの泣きそうな顔。
リカは不思議そうに見上げるミキににこりと微笑んだ。
もっとも、あの日、殺伐とした二人よりもそのとばっちりを食ったカオリを慰める方が大変で…。
歌が裏目に出てますます食堂の温度が氷点下をはるかに超えて下がっていった。
ますますしゅーんとなるカオリを抱き締めて、よしよしとリカが頭を撫でた。
『カオたんの作ったごはん、おいしいよ』
『そーですよぉ。あっ! ミキ、おかわりしちゃおっかなぁ』
『あっ! じゃあ! レイナもっ!』
『私もお願いします!』
『みんないっぱい食べて、大きくならないとねぇ』
リカも自分の茶碗代わりのブリキのボールを手に立ち上がった。
『もーこのチンジャオロースー一口だけでご飯5杯はミキ、軽くいけちゃうね』
『いや、レイナは6杯いけます』
『みんな育ち盛りだもんねぇ』
リカが一人一人によそって、サユミが手伝いながらそれぞれに渡していく。
レイナはボールを受け取ると、
『でも、みきねぇ、胸は育っとらんっちゃ』
と小声で呟いたつもりが、にっこり笑顔で笑ってないミキの目がレイナを突き刺した。
『言うじゃねぇか。自分も平らなくせに…』
『レッ…レイナはこれからたいっ!』
顔を真っ赤にして食い下がるレイナ。
ふーっと、真下を向いていたカオリが顔を上げた。そしてうつろな目のままにっこりと女神の微笑み。
『大丈夫。カオが育ててあげるから』
『…』
『…』
『…』
『…』
ぴしいっと凍りつくリカとサユミ。レイナとミキは自分の胸を腕で隠すように抱いて固まった。
シーンと静まり返った食堂。
かちゃかちゃと聞こえるのはマコトとノゾミが動かす箸の音だけ。
思い出して、ミキがまたくくくくっと笑い出す。
「あんときはさぁ、ほんっとびっくりしたよ」
「あたしも黙々と食べてましたけどぉ、噴出しそうになっちゃった」
「なぁんだぁ。マコト、ちゃんと聞いてたんだ」
リカがほっとしたように笑う。
「もちろんですよぉ。びっくりしたのなんのって。あれってぇ…」
マコトが急に声を潜める。リカはこくりとやや真剣な面持ちでうなずいた。
「本気だと思うよ…。カオたん、ちょっと宇宙に行きかけてたし…」
なるほど箍が外れたらしい。
もともとキレイなものだいすきな人だから、まぁ、なんとなくうなずける。
リカは前髪をいじろうとするミキの手を捕まえた。
「でも、どっちかがあの空気で笑ってくれれば、案外こんなに長引かなかったかな…って」
「…はぁ」
それはマコト自身も思ったし、ノゾミも思ったことだろう。
カオリの言動だって、もしかしてもしかすると、その辺の配慮もあったかもしれない。…いや、配慮があったらあぁはならないかもしれないけど…。
「すんません…」
どっちかが意地を張れば、意地を張らないわけにはいかない。そんなに素直にできてないもん。
「なによぉ。マコトが謝ることじゃないよぉ」
「そーだよ。しょーがないじゃん。ね」
ミキの言葉にリカがうなずく。
「ケンカしてるんだもん」
「…」
かちこちと秒針の音。
ふと静かになった6畳ほどの薄暗い部屋の中。
またミキがリカの髪をいじろうと手を伸ばす。
「こら。ミキちゃん」
「んー」
「もぉ…」
しょうがないなぁっと笑って、リカはそんなやりとりをぼんやりと見ているマコトにちょっと申し訳なさそうに微笑みかけた。
「ごめんね。マコト」
「はぁ?」
「うん。そうなんだよね…」
「どーゆーことですか? イシカーさん」
「うん…」
リカはちょっとだけミキに身体を起こさせると、座ったまま壁際に移動してぺたりと背中をくっつけて寄りかかって座り直した。
ミキも一緒に移動してまた膝の上に頭を乗っけるところんと丸まって、少し真剣な目でリカを見上げる。
「マコト。横おいで」
「あ、はい」
「あっ。立てる?」
「ん…。もぉだいじょーぶ」
ゆっくりと立ち上がってリカの隣に同じように壁に背中を預けて座った。
床のひんやりとした固い冷たさからふんわりと陽射しをいっぱいに吸い込んだ布団の柔らかさが心地いい。
目を細めて笑うマコトの頭をよしよしと撫でて、リカは顔を目の前に淡く広がる暗闇に向けた。
「マコト」
「はい?」
「最近、何してる?」
「最近…ですか…? のんつぁんと走ったり筋トレとかしてる以外は手紙書いてることが多いです」
「うん。そうだよね。桜の木の下にいるの、よく見かけるし」
「落ち着くんです。あそこ」
そばにいてくれてるような気がして…。
うれしそうに、そしてちょっとはにかむように笑うマコト。
そんな笑顔にリカは目を細めると、ゆっくりと言った。
「ねぇ、マコト。アイちゃんから手紙来たの、おとといって言ったよね。じゃあ、ののがあいぼんから手紙もらったのっていつ?」
「え…。いつって…」
それはイシカーさんだって知ってるはずじゃ……。
言葉にしかけて、マコトはふと口をつぐんだ。
その様子をじっと見つめているミキの手がうにっとリカの耳たぶを引っ張った。
「…いじわる」
ミキのちょっといじわるな微笑に、リカは肩をすくめて苦笑いで返した。
「あっ…!?」
マコトがぱっと顔を上げた。
リカはこくりとうなずいた。
「さびしかったんだよ」
『ごめん。のんつぁん。へへ、ちょっと手紙書くからさぁ』
手の中の空色の封筒。
いつもよりも明るさのくすんだノゾミの笑顔。
「あたしもミキちゃんと一緒にいることが多いし、そうじゃなければカオたんと一緒にサユの特訓でしょ」
「ミキもレイナを特訓してるかリカちゃんといるかどっちかだし。レイナとサユはたいがいいつも一緒」
「…」
うつむくマコト。リカは落ち込んだ肩を優しく撫でながら、更に続けた。
「だからね。いっつも一緒だから…ヘンな言い方だけど、なんとなく…マコトに…任せっきりにしちゃってたんだよね」
「イシカーさん…」
どう言えばいいのかはわからないけど、少なくともケンカをしたのは自分とノゾミ。
「別にイシカーさんもフジモトさんも悪くないじゃないですか」
「うーん。だけどね、もっと気づいてあげられたらなぁって…」
「けど…」
「みんなだいすきだよ。ののって、なんかねぇ、ほら、危なっかしくて…コドモで」
そして、ミキがちょっと呆れたように笑いながら後を続ける。
「そうそう。よく食べるし、うるさいし、でもおっかしくってさぁ、無邪気だし、かわいいし…」
「ふふ。ね。かわいいから、なんか憎めなくって…。大事な…妹なのにね」
そう言ってリカがさびしげに笑う。
「…」
「あいぼんから一週間くらい来てないんだよね。手紙。いつもはもっと頻繁にやりとりしてるのに…ね」
アイとマコトはほとんど3日に1回の手紙の交換。
アイとノゾミの手紙のペースもだいたい3日に一回。けど、一週間空いたことなんてなかった。
「不安で仕方ないんだよ。特にさくらの方は今かなり大変みたいだから…」
「……」
ぎゅうっとマコトの手が固く固く握り締められる。
戦況が厳しくなるほど手紙のやり取りの間隔は狭くなっていく。
前は一週間に一回だった。
二人の間の定期便は互いの戦況が激しくなるにつれて間隔を失って行く。
そばにいられないから、せめて思いだけでも…。
上手く伝えられないけど、そのすべてを鉛筆に込めた。
基地を出て、本部内の郵便局を経由してベースキャンプへ。
それでもほんの少しだけずれる日付。
じわりと心の奥に溜まって行くもどかしさ。
気持ちが募れば募るほど、知らない日々に想いばかりを馳せて潰れそうになる。
「のんつぁん……」
手紙が着たあの日、桜の下でいつものように手紙を書いて戻った。
玄関で見かけて声をかけたら、ちらりとこっちを見てさっさと行ってしまった。
なにがなんだかわかんなかった。
『なにさぁ! アイちゃんアイちゃんって』
『だったらさくらにいっちゃえばいいじゃんかっ!』
そういうことを言うのって、それだけ追い詰められてたって…ことだよね。
さくら隊はここのところスクランブル出動が増えている。
通常の防衛部隊じゃ足りないからと借り出されるらしい。
『
昨日は市街地の防衛戦だったよ。
街が無事でよかった。
あたしもほら、ちゃんと帰ってこれたよ。
もうすぐポイントDでの戦闘だよ。
今度は海の上だって。あっちの空母ってすごいんだってヤグチさんが言ってた。
アベさんは「問題ないって。ウチラってば無敵じゃん」って言うんだけど、怖いよ。やっぱ怖い…。
ねぇ。海の上なら、おっこっちゃっても痛くないかなぁ?
どうなっちゃうのかなぁって思うけど、でも、たぶん大丈夫。いや違う違うきっと大丈夫。
でもね。マコト、怖いよ。怖いけど、マコトもそれは一緒なんだよね。
だからね。ガンバル。
マコトもがんばってるから。
戻ってきたら手紙書くよ。待っててね。じゃぁ。
』
3日前の戦況確認でさくら隊の近況が伝えられた。
一気に攻勢をかけるために飛んだ10の部隊の半分が敵軍の都市防衛部隊とやりあって空に散った。
一つの街を焼き払い、相手にもそれなりのダメージを与えたが、それ以上に損害も大きかったことを知る。
“さよなら”という意味の語で結ばれなかった手紙。
聞けばさくら隊の何人かが戻ってきた直後に倒れたとらしいカオリから聞かされた。
心臓が握り潰される思いだった。
そして次の戦地は青い青い海の上。
青い青い空の下、戦う相手は鋼色の海の怪物たち。いったいそいつらはどれだけの仲間を食えば気が済むのだろう…。
怪物の前ではたぶん、ひらひらと舞う飛行機なんぞ、ハエみたいなものかもしれない。
「……あたし…」
握り締めた拳。
ポタリポタリと雫がスリープシャツと対のズボンを濡らしていく。
ミキはよいしょと手を伸ばして頬を滑る涙を拭った。
「フジモトさん…」
「…うん」
微笑んで返すミキ。
リカはそっと肩を抱き寄せた。
「…ごめんね。マコト」
けど、マコトはぶんぶんと首を横に振る。
リカは思いっきり眉をハの字に下げて笑った。
「ののにも…謝らないとね」
「…」
「誰よりも甘えん坊だって…わかってるんだもん…」
「…」
きゅっと唇を噛むマコト。そんな彼女の頭をよしよしと撫でて、またすんなりとした指先で涙を拭うミキ。
マコトは指先が離れたのを見て、自分でごしごしと袖で乱暴に涙をぬぐって笑った。
「バカだよね。あたし」
「マコト?」
「だって、おんなじ立場だったら苦しいもん」
ノゾミの小さな胸の内側で暴れ狂った嫉妬という名のバケモノ。
でもそれは自分の中にも住んでいて、誰の中にも住んでいる。
「あたし、のんつぁんの言うとおりバカだよ。なのにわからずやって言っちゃった」
へへって沈んだ空気を振り払うように明るく笑うと、すくっと立ち上がってベッドから飛び降りた。
「マコト?」
リカの声にマコトはくるりとターンを決めて振り向くと、ニカッと笑った。
「ありがとーございます! もぉ、だいじょーぶぃ!」
びしっとVサイン。
互いに顔を見合ったリカとミキからくすっと笑みが零れた。
マコトはコホンと咳払いをすると、
「そーゆーことなので、あんまりみんなの前でいちゃいちゃしないでくださいねー」
と、ドアノブに手を掛けた。
「じゃあ、ありがとーございました。おやすみなさーい」
パタン。
ドアが閉まって、なんとなく静かになる。
もっとも入ってきたときもなんだかんだと大騒ぎだった。よく誰も起きなかったものだと、リカは自分の膝枕を楽しむミキをなんとなく見つめた。
「…」
「…」
「そーゆーこと…って?」
ぼんやりとリカが呟く。
ミキはじーっとしばらくリカを見つめていたが、ぽつりと呟いた。
「よーするに、いちゃいちゃすんな…と」
「さびしいコもいるんだからね…って…ことだよね」
ミキはコクリとうなずくとずっとリカの膝に預けていた上半身を起こした。
「戻るの?」
「なんで?」
リカに半分背中を向けてベッドの足元の方に手を伸ばすミキ。
「え? だって、今…マコト、ほら…」
「けどさ、みんなの前でいちゃいちゃしてなきゃいいんでしょ」
「まぁ…ねぇ」
「でしょ。それとも、ミキ…戻ったほうがいい?」
くるりと振り向いて鼻先が触れるくらいにリカに顔を近づけた。
「え…ぁ…」
どう答えていいのかわからない。だけど表情にはっきりと浮かび上がっていたのは不安と寂しさ。
ミキはそのままちょっとだけ首を伸ばしてリカの唇に自分の唇を押し当てると、足元で丸まっていたタオルケットを掴んだ。
「だから、ね。リカちゃん」
そのままがばっと抱きついて押し倒す。
ぎゅうっと抱き締められて悲鳴を上げるまもなくぼふっとリカの頭が枕に沈み込む。目を開けたら、満面の笑顔のミキ。
「ふふっ。このまま…ね?」
そんなかわいらしい笑顔と甘ったるい声で言われたら、もぅ…、
「うん…」
って言うしかないじゃない…。ずるいよ。
その答えに満足げに笑って、ミキはリカの胸に頭を乗せて目を閉じた。
蒸し暑い部屋。
やわらかいシャツの布地越しに伝わるミキの体温。
「熱い…」
「いいじゃん」
生きてるって…証拠だよ?
「ちょうどいいよ」
首筋をくすぐるミキの落ち着いた呼吸。ふうっと体温が上がっていくのを感じる。
リカもミキの背中に腕を回すと、ぎゅっと力をこめて抱きしめて鼻先を肩口にうずめた。
「…リカちゃん?」
「…うん」
蒸し暑い部屋の中、それでもぬくもりがいとおしく感じる。
あたし…恵まれてる…。
すがりつくようにぐっと腕に力を込めて、体を預けるように少しだけ横に転がした。
こうやっていられるのも…今だけかもしれない…。
消えないで…。
もう…一人になるのいやだよ。
「リカちゃん」
耳を打ったやさしいミキの声。あやすように何度か背中を叩いて、ゆっくりと宥めるように慈しむように背中を撫でてくれる手。
閉じた目の端からすっと一滴零れ落ちたのがわかって、リカはミキの肩に顔を押し付けた。
きっと気づいてないよね。
こうやって甘えてくれたの…初めてなんだよ。
ミキは撫でる手を止めてリカの頭を抱くと、それでもまだ離れてるといわんばかりに強く引き寄せて額に口付けた。
このまま…時間が止まればいいのになぁ。
かちこちと時は淡々と刻まれていく。
どこかでイヌの遠吠えが聞こえたような気がした。
*
よく晴れていた。
青い空はどこまでも広がって、青い海を包んでいる。
頭の上も体も足の下も青に囲まれるのって、どんな気分なんだろう。
マコトは桜の下できらきらと光る木漏れ日を受けながら空を見上げていた。
ゆらゆらと陽炎が立ち昇る。
そっと幹に触れたら、なんだかやさしかった。
目を閉じたら、彼女がくしゃって笑う顔が浮かんで、なんかおかしかった。
そして、マコトはまた空を見上げた。
「マコト」
「のんつぁん…」
声の方に視線を移すと、ノゾミが難しい顔をして立っていた。
そういえば今日もまだ朝から挨拶以外は一言ともしゃべってないんだよね…。
そのせいか落ちつきなく動く視線。唇を噛んだり舐めたり尖らせたりへの字になったり。後ろに回っている両手もなんだかごそごそと所在無げに動いているようで、くるくると変わるその様子はかわいかった。
「あっ! 何笑ってんだよぉ!」
「あははっ。ごめんごめん」
「もぉ…。こっちは真剣なのにさぁ」
「そーなの?」
「そーなのっ!」
「そーなのかぁ」
マコトはそう言うと、ふわっと目を細めて笑った。
「のんつぁん」
「んー?」
まだ怒ってるノゾミのぶっきらぼうな返事。
マコトは桜の幹から手を離してしっかりと向き直ると、まっすぐにノゾミを見つめた。
「ごめんね。のんつぁん」
そしてぺこりと頭を下げたら、ノゾミがきょとんとしていた。
「あたし、のんつぁんの気持ち、考えてなかったよ」
「…マコト」
「ほんとに…ごめんね」
「…うん。…ぃや…その…………………のんも…ごめんね」
うつむいて、だけど視線だけを上げるノゾミにマコトはいつものように明るい笑顔で首を横に振った。
「…」
それでもまだちょっと意地っ張りな部分が残っていたのか、小さな小さな呟き。それでも「ありがと」はちゃんとマコトの耳に届いていた。
「のんつぁんっ」
ぎゅうっと抱きしめて、マコトはそっと耳元で囁いた。
「早く、返事書いてあげなよ」
「…!」
ちょっとだけ首をめぐらせてマコトを見たら、ぶちゅってほっぺにちゅう。そしてにへへへへって、照れくさそうな笑顔。
「ねっ。なっかなっおりっ!」
ばんばん背中を叩かれて、だけど、なんかうれしかった。
ノゾミもなんだか照れくさくなって、へへって笑うと、おかえしにむちゅっとのマコトのほっぺにキスをした。
「じゃ、マコト、あとでね!」
「うんっ!」
マコトの笑顔を受けて、ノゾミは走り出した。
右手には淡い桜色の封筒。
マコトはまたそっと幹に触れると、鮮やかな緑をまとって大きく枝を広げる桜を見上げた。
『
Dear のの
のの。手紙、遅くなってごめんね。
なんかね。目が覚めたらね、3日たってたの。
基地までもどってきたのはなんとなく覚えてるんだけどね。
なんかすっごい熱出ちゃってるらしいみたい。熱い。
でもね。なんとか無事、帰って来れました。
ののは明日だっけ?
手紙つくころには…だよね。たしか。
ねぇ、のの。
会いたい。
会いたい。
』
ノゾミは最後に書かれた5文字をそっと指でなぞった。
“会いたい。”
力のないちょっと震えた文字。
だけどずっと待っていた見慣れた文字。
とてもとても短い手紙。だけどほっとした。
「あいぼん…」
ノゾミは顔を上げた。
部屋の窓の向こう。目の前に広がる青。
澄み渡って延々と広がっていく鮮やかな空の青さがなんだかひどく胸を締め付ける。
会いたいよ…。
同じことを思ってる。
きっとベッドの上から、同じ空を見てるよね?
「…あいぼん」
ノゾミは窓枠に腰をかけると、軍支給のカーキグリーンのカーゴパンツのポケットからブルースハープを取り出した。
「あいぼん。何歌おっか?」
きっとずーっとベッドでじっとしてるから退屈だよね。
そっとハープに口をつけると、ノゾミはゆっくりと息を吹き込んだ。
青い青い夏の空を駆け上っていくミディアムテンポのメロディー。
なんだかんだとあるけれど、人生はきっとすばらしい。
一人じゃないってわかるから、だから笑顔でいよう?
だから、笑顔でいて?
机の上にはキャラクターものの便箋が散らばって、その上に丁寧に封をした手紙。
明後日にはアイのところに届くだろう。
ベースキャンプに流れるやさしい歌。
うだるような暑さの中ののんびりとしたひと時。
それでもふいに見上げた空はずいぶんと高く感じて、透明感を感じる伸びやかなそのスカイブルーが秋の訪れを告げようとしていた。
(2004/10/14)
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