ちゅんちゅん。
すずめの声。
誘われるようにすーっと声を追いかけていって、たどり着いたのはやわらかいぬくもり。
布団の暖かさと自分の体をしっかりと抱く肌の温かさ。
リカはしばらくぼんやりと薄暗い部屋の天井を見つめたまま、首筋にかかる吐息を感じていた。
カーテンの向こうはよく晴れているのだろう。織り目が光に透けている。
そっとミキの頭に手を置くと、まだ夢の中から戻ってくる様子のない寝顔を眺めた。
戯れるように指先でさらさらの髪をいじりながら目覚まし時計に目をやったら、騒ぎ出すまでまだずいぶんとあるようだ。
ぬくもりに包まれてうとうととまどろむ心地よさ。
よいしょと抱き寄せたら、
「……ん…」
もぞっと動いてしっかりとリカを抱きしめるミキ。
ちゅん。
ちゅんちゅん。
指先でいじるのをやめて梳くように撫でると、くすぐったいのかちょっと肩をすくめた。いい夢でも見ているのか、幸せそうに微笑んでいる。
「…」
前髪をすっと指先で上げてちょうど目の前にある額に唇を落とすと、んがっと腕を伸ばして目覚まし時計を止めた。
「さて…」
朝ごはんの支度、しようかな。
しっかりと自分を抱きしめるミキを起こさないようにゆっくりと腕を解くと、体から下ろして静かに布団から抜け出す。
ベッドの下に落とした下着とシャツを拾う。
ぬくもりが消えたことに気づいたのか笑顔が消えたミキの寝顔に、着替えながらついつい零れる苦笑い。
そっと布団を上げてミキの裸の肩を隠すと、頬に口付けた。
ちゅん。
ちゅんちゅん。
ちゅん。
ちゅんちゅん。
目が覚めたらシーツにキス。
むぅと不機嫌に眉をひそめてむくっと頭を上げると、時計を一睨み。
素知らぬ顔をしている目覚まし時計はまだ鳴り出す5分前。すでに止められているから騒ぎ立てることはない。
「…」
ちゅんちゅんと窓の外で鳴いているすずめの声を聞いてもちっともさわやかに感じない。
がしがしと頭をかくと、布団にもぐったままベッドの下へと手を伸ばした。
とんとんとんとんとん。
包丁の音の軽やかなリズム。
鼻をくすぐるバターの匂い。
こぽこぽとフラスコの中のお湯が泡を立てて踊っている。
テーブルにはサラダと白い皿が2枚。
ラジオから流れるボーイズグループのさわやかなハーモニー。
軽やかなメロディーは、キミが僕を愛してくれるなら何も気になんてしないさ…なんて甘い恋の歌。
キッチンに立つリカが鼻歌を歌いながらフライパンを動かしている。
ミキが足音を立てないようにキッチンへと踏み込むと、
「ミキちゃん。おはよ」
明るい声はフライパンで香ばしく色づいたバターの香りとともにミキに届いた。
「おはよ」
ちっ。気づかれた。
気持ちはそのままぶっきらぼうに声に乗っかる。
「いつ気づいた?」
「ん? ベッドの中」
「はぁ?」
「ミキちゃん、ベッドの中で着たでしょ?」
「んー…。まぁ…」
さすが名スナイパー。
衰えてないねーって、でもさぁ……。
なんとも言えない思いを抱えたままとりあえずつかつかと歩き出す。
「そんなことしなくてもいいんじゃない?」
「そんなこと?」
「だってさ…終わってんだから」
ミキは後ろから閉じ込めるようにリカを抱きしめた。
かちん。
リカはコンロの火を消した。
「…そうだね」
「そうだよ」
もっと一緒にいてくれてもいいじゃん。
抱きしめる腕にぎゅっと力が入って、首筋に口元をうずめる。
「…わかっちゃうんだよね…」
でもここまでわかるのはミキちゃんだから。
リカはミキのこめかみに口付けると、
「ほら、コーヒー淹れるから」
ミキの腕をやんわりと解いた。
白い皿にこんがりキツネ色に焼けたフレンチトースト。
しぶしぶ座ったミキはふてくされた顔のままマーマレードのビンを手に取った。
パカッ。
とぼけた音を立ててふたが開く。
リカはもう1枚焼き始めると、沸騰したフラスコの上にフィルターをセットしたロートを置いて、今度はミルクパンの牛乳を弱火で温め始める。
「ねぇ、ミキちゃん」
「…ん。なに」
「ん? な〜に膨れてるの?」
「膨れてないって」
「うーそ」
「うそじゃないって」
「えー。そーかなぁ?」
リカはくすくすと笑いながら、コンロの火を消してミルクパンの中の牛乳を小さめの白いポットに移すと、ちょうど片面が焼きあがったフレンチトーストをひっくり返す。
「とてもそんなふうには、見えないけどなぁ」
寝起きのいいミキが機嫌が悪い理由なんてすぐに思いつく。
ポットをテーブルに置くと、リカは無表情を装うミキの髪を梳くように撫でた。
ちらりとリカを見上げて、けど素っ気無い振りをして黙々とマーマレードをフレンチトーストに乗っけるミキ。
わかってるくせに…。
髪をいじっていたリカの指先が離れて、ついさびしくて指先を目で追って、小さな背中を眺める。
かちっ。
火を止めて、フライパンを片手にリカが振り向いたら、さっとバツの悪そうな顔をしてミキが顔を背けた。
あーあ。まったくもぉ。
「かわいいなぁ」
ついつい言葉が零れ落ちて、ミキにじろりと睨みつけられた。
まったくもって素直じゃない。
それは自分もなんだけど。
リカはもう1枚の皿にフレンチトーストを乗せてフライパンをコンロに置いた。
すーっとフラスコのお湯が粉を持ち上げていく。
リカが竹べらで粉を沈めていくと、ふわっと辺りに広がっていくコーヒーのまろやかな香り。
ミキはぼんやりとそれを眺めたまま、ぼそりと呟いた。
「だって…」
「だって?」
手を止めて言葉を繰り返すリカの目を一度ちらりと見上げると、
「いないんだもん」
またふいっと目をそらして、フォークでちくちくとフレンチトーストに八つ当たり。
ふふっとリカは笑った。
「そっか」
「あーっ! 何笑ってんの!?」
「だって、やっぱりかわいいんだもん」
ゆっくりとロートの中をかき回していた竹べらを取り出すと雫を切ってからまな板の上に置いて、
「うれしいなぁ…って」
小さく呟いて、アルコールランプをフラスコから外した。
かぽっとカバーをかぶせて火が消える。
ロートの中の琥珀色の液体がすうっとフラスコへと戻っていく。
ふわりと広がるコーヒーの香り。
はぁ…。
ミキから零れ落ちたため息。
「だってさ…目が覚めたらキスしてんだよ。シーツに」
腹立つでしょ。ふつー。
「だって、ミキちゃん、すっごく気持ちよさそうだったから」
起こしちゃったら…悪いなぁって思って。
「起こしてくれればいいのに…」
「ふふっ。寝顔もすきなの」
リカはフラスコを手にすると二つのカップに半分くらいずつ注いでから、ポットに入った牛乳を注いだ。
「安心するんだ」
生きてるんだ。
一緒にいるんだ。
「今日も朝が来たんだ…って」
いつもどおりの、何の変哲もない普通の朝。
太陽がまぶしくて、すずめが鳴いていて、空が青くて、穏やかで、隣にはあなたがいて…。
何事もない、そんな日常。
「平和だなぁ…って」
雨の音を聞きながらまどろんだり、曇り空になんとなく起きるのを渋ってみたり。
「幸せだなぁって」
トンとミキの前に置かれたカフェ・オレ。
ほのかな湯気を立てて、鼻をくすぐるやわらかい香り。
ミキは1さじ砂糖を入れてかき回すと、何も言わずに考え込むように視線を下げたままカップに口をつけた。
「あちっ!」
「大丈夫?」
「…ぁ、うん」
心配そうに微笑むリカをちらりと見て軽くうなずくと、ふーっふーっと息を吹きかけてカフェ・オレを冷ますミキ。
リカは自分のカフォ・オレを作ると、砂糖を3つ入れてくるくるとかき回しながらふーっふーっとがんばって冷ましているミキを眺めていたが、
「ねぇ、ミキちゃん」
そろそろかな…とカップに口をつけようとしたミキの手を包み込むように押さえて止めた。
「ん?」
ミキが視線だけを向ける。
リカはカップを持つミキの手を少しだけ押し下げると、息を吹きかけるために尖らせたままになっている唇を塞いだ。
トン。
ミキはカップをテーブルに戻すと、離れようとした唇を追いかけてリカの頭を捕まえた。
するりと首に回った腕。
リカの手がミキの頬をそっと包み込む。
ゆるやかなメロディーに包まれたやさしい歌。
何度か軽く触れ合って、ようやく離れた唇。
名残惜しそうに薄く開いたままのミキの唇を、そっとリカの人差し指がなぞった。
「ご機嫌直った?」
「…さぁね」
わざとらしく仏頂面を作ったままミキが再びカフェ・オレに口をつけた時には、もう少しぬるかった。
いつもより少し早く起きたから、なんとなくゆとりのある朝食。
ミキが勤める喫茶店の、どこかリサによく似たひげのマスターが徹底して吟味してブレンドしたコーヒー豆で作ったカフェ・オレのやさしい甘さ。
手作りのマーマレードが乗ったフレンチトースト。
白いカーテン越しの光。
窓の向こうから高く澄み渡った空が覗いている。
「今日は早いの?」
「うーん。たぶん大丈夫だと思う。お昼はミキちゃんとこで食べるよ」
「わかった。ランチ、用意しとくね」
「うん。エリカとユイちゃんも一緒になると思う」
「うん。待ってる」
ちゅんちゅん。
外ではすずめがにぎやかに歌っている。
軽快な音楽からニュースへと変わったラジオ。
最初の話題は国境近くの小競り合い。そして、テロ事件の話題へと続いていく。
「…」
「…」
甘いはずのカフェ・オレがほんの一瞬、苦く感じた。
リカははぁっと小さいため息をこぼした。
「…消そっか」
「…いいよ」
「どっち」
「そのまま」
なんとなく投げやりにそう言うと、ミキは残ったカフェ・オレを一気に飲み干した。
リカも無言でフレンチトーストを口に運ぶ。
しばちゃん、どうしてるかなぁ。
メロンのみんな…たいへんだろうなぁ。
親友から来る手紙には何一つそのことは書かれていない。
当然といえば当然なんだ。自分はもう関係ない。残ったとしてもアユミが話すことはない。
だからこそ、心配でたまらない。
近くにいれば、何かに気づいてあげることができるんじゃないかと思うから。
「ミキちゃん」
「ん?」
「今度さ、お休みの時、行こうか? 遊びに」
「そうだね」
アヤちゃん、たいへんだろうなぁ。
無理しなきゃいいけど…。
手紙では甘えるようなことは書いてあっても、何一つ書かれていない弱音。
だからこそ無理をしているんじゃないかと気になってしかたがない。
周りに誰かがいるとわかっていても、親友として自分ができることがあるのでは…。
そんな思いに駆られると、いてもたってもいられなくなる。
結局、自分はどこまで行っても離れられないんだろう。
それは目の前にいるリカも同じ。
ラジオから流れる淡白な声にじっと耳を傾ける。
ニュースは、死者は出なかったものの多数の負傷者が出たことを淡々とした口調で伝えていく。
時折じりっと混じるノイズ。
心に深く突き刺さるようで、秋の空の透明感を増した青が少しだけ切なく感じた。
戦いが終わったはずの互いの国で相次ぐテロ事件。国境での小競り合い。
終わっていないのか終わっているのかすら、わからなくなる。
リカは空になったカップを見つめて、ふと呟いた。
「なんか…不思議だね」
ミキは何も言わずに、じっとリカを見つめる。
兵舎の玄関の前で整列して、
『番号!』
凛としたカオリの号令で、
『いちっ!』
『にいっ!』
『さん!』
『よんっ!』
『ごっ!』
『ろくっ!』
点呼から始まる1日。
その後カオリは朝食の準備へ。
厨房防衛部隊の戦果確認のカオリの悲鳴を聞きながら、各々自分の部屋の掃除と兵舎周りの掃除へ。
朝食は朝7時30分。
目覚めの1杯と集中力向上。
疲れた体にもいいし、カフェインってすごいんだよ。
だけどコーヒーが飲めない子もいるからね。
やさしい甘さとふんわりとしたあたたかさ。
出撃のある日もない日も必ず出てきた、カオリの愛がこもったカフェ・オレ。
朝1杯の、ささやかな贅沢。
「あの頃と…変わってないんだね」
たぶんあたしたち。
朝1杯のカフェ・オレを飲んで、そして1日が始まったことを感じる。
あの頃と比べれば、今は少しばかり静かで、だけどずっとずっと穏やかだけど。
「いいじゃん」
ミキは食べ終えた皿を同じように空になったリカのと重ねると、流し台へと置いた。
「だってさ、何も変わってないんだから」
そのままでいい。
このままがいい。
だから…。
だから、そばにいて?
後ろからリカを抱きしめて、頬を寄せた。
リカはそっとミキの腕に手を置いた。
「ねぇ、ミキちゃん」
「ん?」
「まだ…みんな飲んでるのかなぁ?」
「飲んでるよ。だって、1日が始まんないじゃん」
「…うん。そうだね」
ふと、あの頃毎日飲んでいたカオリのカフェ・オレが妙に恋しくなった。
まろやかだけどちょっぴりほろ苦い、オトナのカフォ・オレ。
ニュースが終わって、天気予報は今日も快晴だと明るい声で語っている。
窓の向こう。遠く、国境の近くは今日も緊張感でぴりぴりしている。
そんな緊張感もまだ二人には遠い過去にはなれないリアルなキオク、そして感情。
少し早起きな朝。
ふと時計を見たら、出かける時間が意外と迫っていることに気がついた。
ちゅん。
ちゅんちゅん。
ちゅん。
ちゅんちゅんちゅん。
簡単にシャワーを浴びて、リカはライトグリーンのストライプの入った制服に着替え、ミキはブラックのジーンズにボートネックのシャツ。
一足先に出かけるリカを見送りに玄関先へ。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん」
「ねぇ、ミキちゃん」
リカの腕がゆっくりとミキを包み込んで引き寄せる。
「どこにも…いかないから」
耳元でふわりと囁かれた言葉のぬくもりに胸を掴まれる。
ミキは力強く抱き返して顔をうずめた。
「うん…。そばにいる」
不安になるのは、何も変わってないから。
たった一つの確信がほしい。
それがあなたのぬくもり。
そしてあなたの言葉。
確かめ合って、ものたりなくて…。
結局それもあの頃と変わらない。
「そばにいて」
あの頃はもっと不安だった。
だって、本当にいなくなってしまうと思ったから。
それが怖くて、だからあなたを抱きしめた。
些細なことでこんな風に感じるのも、たぶん今がおだやかだからだろう。
変わらないということが、あながち悪いとばかりは言えない。
だって、ここにいる。
こうして、抱き合って感じてる。
あの頃から今日まで、そして明日も…。
何も変わらない。
なんだか急におかしくなって、くすくすと笑いながら軽く唇を触れ合わせた。
「じゃあ、また後でね。ミキちゃん」
「うん。いってらっしゃい」
今日もいつもと変わらない1日が始まる。
見上げた空は高く高く澄み渡っていて、すずめが海の方へと仲間達と連れ立って飛んでいく。
しばらくは快晴の秋の空。
ようやく黄色に色づきはじめた庭の木々の葉がさらさらと、涼を含んだ潮風に揺れていた。
(2005/1/13)
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