初めての口付けはなんとなく。
見つめあって、近づいて、重なった唇。
深い意味なんて考えなくって、触れ合うだけのやわらかい口付け。
あの事件から2週間後に逮捕された犯人達の裁判開始を伝えるニュースがカーステレオから流れて、リカはスイッチを押して黙らせた。
そしてすぐに訪れた2回目のキスは深く繋がって、今思えば拙いキスだったけどカラダが壊れそうなほど熱くなった。
抱き合う腕。
燃え上がるココロで熱を帯びた吐息。
指先に触れた焼け付いた肌。
今でもはっきりと覚えている、あの暑い夏の日。
静かな夜。
……
…
相棒のフロントガラスの端に見える満月。
ウィンドウを少しだけ開けた車内はどこか蒸し暑い。
それでもリカはでかいハンドルに上半身を預けたまま暗闇を見つめている。
隣にはシートを倒して軍支給のサンダルを脱いだ足をダッシュボードに乗せて寝転がるミキ。ふらふらと白い棒が揺れて、ぼんやりとした瞳の先にあるのは真っ黄色な満月。
この月が反対側の地平線に沈んだら、その2時間後には断末魔の声が響く戦場。
相棒の中で眠くなるまでぼんやりと過ごすリカ。
そのリカの隣、助手席で同じように暗闇を見つめるミキ。
いつもと変わらない、出撃前夜のひと時。
兵舎の方から聞こえてくるブルースハープ。
「ロックだね」
「うん…。ロックだね」
ノゾミが決まって吹くのは比較的にぎやかな曲ばかりで、悲しいナンバーだったことはケイが空に帰ってしまった時だけだった。
ノスタルジックな、だけど肩の力の抜けたミディアムテンポなメロディー。
這って月まで行って鳥と共に見る孤独な景色。
空はやっぱり、そこでも青いのだろうか?
ヤスダさん? わかります?
なんとなく口ずさんで、ミキはダッシュボードから足を下ろすと体を起こした。
リカの肩に置かれたミキの手。
振り返ると、リカはミキを抱き寄せた。
孤独を連れて飛ぶ空は、きっと果てしなく広いだろう。
抱きしめる腕に力がこもって、ミキの細い首筋に噛み付くように吸い付いて少しずつ駆け上る。
「んっ…」
銜えていた白い棒が口の端からほろりと零れた。
抱え込むようにリカの頭を抱くミキの顔が低い天井を仰ぎ、すんなりとした首がさらけ出る。
リカはやわらかく噛み付きながら唇までたどり着いたところで、ふっと抱きしめていた腕の力を緩めてコツンと額を合わせた。
「……リカちゃん?」
はっ…と熱を帯びた吐息。じれて焦がれた唇。
ミキは頬を押さえて自分から迎えに行った。
深く繋がろうとするミキから逃げるように下唇を何度か食むと、リカはそっと体ごと離れた。
「…リカちゃん?」
「うん…」
答えになっていない返事が一つ。リカはポスッと運転席のシートに体を沈めた。
納得できない態度。体の中にくすぶった熱を抱えて覆いかぶさると、ミキは運転席のシートを倒してリカの顔の真横に両手を突いた。
「ゴメン…」
「何が?」
自然と口調が厳しくなる。
リカは困ったように眉を下げて笑った。
「そうだよね」
そっとミキの肩に手を置いて体を起こすと、お気に入りのぬいぐるみを抱くように細いミキの体に腕を巻きつけてぎゅうと力を込めた。
「ねぇ…。ドライブ行かない?」
「…ぇ?」
急に何を言い出すの?
戸惑いに目を見開くミキの唇をやんわりと塞いで、リカはふふっと微笑んでいた。
「ね? ミキちゃん」
星空の海を渡る鳥達の群れがまあるい満月の中を通り過ぎていく。
蒸し暑い夏の夜。
静かなベースキャンプ内に響き渡るブルースハープの音はさびしげだった。
*
いつもは深い深い闇の中。
顔を上げて少しだけ目線を上げれば満月。
空を染めて、ヴンと唸るバイクの二人の照らして、真っ白い光が夜を貫く。
ヴゥゥゥゥゥゥゥン…。
ゴーグルをして細いライトが照らす闇に眼を凝らすリカの髪が風になびく。
ぎゅっとリカの細い腰にしがみついて、背中に顔をくっつけて体を預けるミキの髪も時速80キロの風に揺れていた。
真夜中のささやかなタンデムデート。
律儀に外出許可を取って相棒の前でミキを待たせていたリカはサヘイジと一緒に戻ってきた。
車かと思っていたミキもさすがに面食らったようで、リカはくすっと笑った。
そしてフルフェイスのヘルメットを見せた。
『いる?』
『いい。いらない』
ヘルメットを断ったら、
『あー。なんか…ケメちゃんが夢に出てきそう…』
『んなわけないって』
『でも、あーみえてけっこーうるさかったから』
『あぁ…。そう言えば、よくリカちゃん叩き起こされてたもんね』
『そーだよー』
『でも、そのわりにはスピード狂でシートベルト嫌いだったよね』
って笑って、まっいっかって結論で片付ける。
風を受けたい気分だったのは二人とも同じ。
理由が同じだとは限らないけど、リカの背中にひっついて、ぼんやりとミキは流れる藍色に輝く草原を眺めていた。
這って月まで行って鳥と共に見る孤独な景色。
孤独を連れて飛ぶ空の色。
なんとなくさっき聞いたブルースハープのメロディーを口ずさむミキ。
孤独を連れて飛ぶ鳥と眺める景色は、こんななのかなぁ?
抱きしめた華奢な背中。
胸で受け止めて伝わるぬくもりは風に流されず、じとっと汗ばんでシャツに染み込む。
天の川と一緒に走っているような錯覚に陥って、月が無邪気に微笑みながらおいでおいでと手招きをして逃げていく。
見えてきた河の流れの上にもう一つ月の姿。
リカはゆっくりとスピードを落とすとバイクを止めた。
真夜中の河がゆらゆらと月を浮かべてゆったりと流れている。
岸辺まで行かなければ聞こえないであろう穏やかな流れは、月の光に支配された空の代わりにすべての音を飲み込んでいるように思えた。
月明かりの中、蒼く浮かび上がる短い草の茂った土手を少しだけ降りて二人は腰を下ろすと、しばらく黙って河を眺めていた。
藍色の世界。
満月が作り出す淡く眩しい光の空間は、穏やかでやさしいようでいて、なのになぜか落ち着かない不思議な世界。
月に照らされてミッドナイトブルーの二人の影。
トンとリカがミキの右肩に頭を乗せた。
「どうしたの?」
「うん。思い出しちゃった…」
「何を?」
ミキが少しだけ顔を向けると、リカは見上げて薄くさびしげに微笑んだ。
「最初のキス」
「…」
今思い出しても、何でキスをしたのか、そうなったのかよくわからない。
ただ、あの日…自らの過去を話したその日から、相棒にこもるたびにいつの間にか気がついたらミキは隣に座っていて、時に無言で、時になんとなくそれまでを語りながら過ぎていった時間。
どちらからしたのかもよく覚えていない、不思議なキス。
二人には本当になんとなく自然だった。
「あたし…」
「…なに?」
「怖かった…」
「…」
空を渡る風がふわりと前髪をなで上げる。
「……今も…」
小さな呟きは届いていて、だけどミキは何も言わなかった。
肩を抱き寄せて、月夜の下で青白いリカの唇に押し付けるように自分のそれを重ねて押し倒す。
短い草がザラと音を立てる。
ミキの肩越しに見上げる満月は、覗きこんだリカの瞳の中でも揺れていた。
「怖い?」
「うん」
掴んだ肩に指先が食い込む。
「何で?」
「だって…オオカミなんだもん」
ふっ…と力が抜けて、肩に食い込んでいた指先でやさしくリカの頬を包みこんだ。
「満月だからね」
口付けを落としたら、リカの腕がミキの背中に絡みついた。
「このまま……」
どこにも行かないで。
「……ずっと…」
そばにいて?
「…ずっと…」
赦してくれなくて…いいから。
「ミキちゃん…」
見上げるはかなげな瞳。
受け止めた力強いまなざし。
「リカ…」
ここにいるよ。
「…大丈夫」
そばにいるよ?
「ねぇ…」
このまま…。
「このまま…」
重なる二人の影と唇。
すき…。あなたが…すき。
夏の満月は地平線よりもそれとなく近いところをゆっくりと、真っ赤な星に先導させて渡っていく。
たくし上げたスリープシャツの下から現れた素肌をじめっとしたぬるい風が撫でる。
ドクドクと鳴るリカの心臓の真上に愛しむように落とした唇。
零れ落ちた吐息。
考えた。
考えに考えた。
復讐するのはたやすい。
まして自分は軍人だ。
まんまと忍び込んだ犯人がどこの人間であれ、敵なのだ。感情移入は容易い。
だけど、死んだ人は帰ってこない。
悲しい。悲しくて、悲しいから、悔しくて、苦しくて…。
苛立ち。怒り。憎しみばかりが積みあがる。
死んだ人は帰ってこない。
そんなことは神様にだってできない。
神様は残酷だ。
万能なくせに、か弱いヒトの子からすべてを奪おうとする。
なぜ? 貴方はニンゲンの父じゃないの?
都合よく復讐の名義に使われて、貴方はそんなことを…望んでいるの?
わからない。
わからない。
リカの手がミキのスリープシャツを強く掴む。
傷を癒すように焼け付いた肌を滑るミキの手に切なげに眉をひそめて、はっと小さく喘いで身をよじるリカの熱い吐息が耳を掠める。
なぜ? どうして?
身勝手なヒトの子は、血に塗れた父なる神を崇高なものへと書き換えて…。
くるくると繰り返されて出来上がる怖いくらい鮮やかな赤いメビウスの輪。
断ち切るハサミはどこにもない。
そうなのかな?
本部にいた頃のふとしたやりとりを思い出した。
『あんなぁ。コドモのケンカならええねん。つまらん事で張っ倒しても』
そんなユウコの口調は冷め切ってて、
『けどな。戦争となったら別や。顔張らてイチイチ張り返しとったらキリないねん』
笑ってはいたけれど、ひどくさびしげで…。
『まぁ…それをせんでいられたら…何の苦労もないけどな』
ポンと力なく肩を叩かれて、会議に行く後姿がえらく小さく見えた。
そうかもしれないし、そうでもないのかもしれないし。
それが簡単にできるほど、人は簡単なイキモノじゃない。
『血で血を洗ってもキレイにならないのにね』
そして冗談めかしておどけるように、
『血生臭くなるだけでさ』
と言った口調はへんに淡々として明るくて…。
ハンドルに体を預けて視線の先には青い空。
乾いた笑顔は疲れていた。
そばにいればわかると思った。
何を見つめて、何を考えたら、あんな風にやわらかく笑えるのか。
その瞳の向こうに押し込めた悲しみのわけを知りたかった。
腕の中で昇りつめたリカの体から力が抜ける。
額に張り付いた髪を払って、汗をやさしく拭って、包むようにふわりと抱きしめてキスをしながらリカの呼吸を落ち着かせる。
見ていたのは戦場。
見つめていたのはそこに渦巻く何か。
流されないように、流れないように。
抱えた痛みが血を流しても、目を逸らさずにまっすぐに。
炎の中に消えて、青い空の下で見つめ続ける世界。
そこはいつだってやさしくなくって、だからせめてやさしくありたいと願った。
「ミキ…」
ふわりと重なる唇。
確かめるようにそおっと頬に触れるリカの手。
指先に口付けて、ミキはリカの乱れた衣服を直して胸に頭を乗せると、まるでしがみつくように抱きしめた。
傷つけて、傷ついて。
少しずつ見えて、感じて、わかって…。
距離が縮まるたびに“イトオシイ”という言葉では言い尽くせない感情。
あなたを包むことで、このもどかしさから開放されるのかな…。
そして、あの日の…あの静かな夜が訪れる。
ミキは隣にごろりと寝転んで手を繋いだ。
並んで見上げる夜空は満月の光に満たされてもそれでも星で埋め尽くされていて、降り注ぐ白い光に頬を撫でられているようで、なんだか不思議。
微笑んでいる夜の女神。
同期の仲間に手紙を書いた後、愛しい彼女からもらった手紙を何度何度も読み返すマコト。
ノゾミはたぶん、まだ窓を開けてブルースハープを奏でているだろう。
ベッドでシーツに包まって膝を抱えてロウソクの炎を見つめるカオリ。
サユミは胸のロザリオを握り締め、天に向かって黙していて…。
レイナがそっとれいにゃを部屋に連れ込んで小さな体を抱きしめて必死に眠りにつこうと試みる。
静けさがひしひしと運んでくる緊張と不安。
かちりと秒針が一つ動くたびに明日へと近づいて、秒針が一回りで4度進む空の星達が太陽を地平線から引き上げる。
繋いだ手に力が入った。
「ねぇ。リカちゃん」
「ん?」
「なぜ?」
「何が?」
「だって、それだけじゃないでしょ。理由」
「理由?」
「そう。さっきの」
「さっきの…」
リカは少し考えて、
「ヤスダさんなら…知ってるかなぁって思った」
空を見上げたまま、独り言のように呟いた。
「孤独な世界の空の色…」
「…」
「ゴメンね。わけわかんないよね。何か…そう思った」
そして、リカは数え切れないほどの星が瞬く空に向かって、さっきの曲を口ずさむ。
そのフレーズを口笛で吹いて、ミキは体を起こした。
「ねぇ、リカちゃん」
「ん?」
眺めていた月から視線を移せば、そこには微笑むミキ。リカも体を起こした。
「なんかわかったよ」
そう言って、ミキはリカの手に指を絡めて繋ぎ直した。
繋がる手と手が伝えるぬくもりは、いつだって温かい。
あなたが、自分が、ここにいることを教えてくれる。
「一人じゃないから」
*
「たまにはいいもんだね。こういうのも」
サヘイジを駐車場に止めて兵舎に戻る途中、そう言ってミキは笑った。
兵舎に戻ったらまだノゾミはブルースハープを吹いていた。
マコトの部屋に灯る明かり。たぶんまだ2年前の冬辺りを読んでいるだろう。カオリの部屋にもぼんやりと明かりが灯ってて、
「たぶん23本目だよね。今頃」
「っていうか、よくストックあるよね…」
などと話しながら兵舎の玄関ドアをくぐった。
階段を上がるとそこはいつもどおりに静かで、だけど耳を澄ますとゴロゴロと動いてベッドの軋む音がレイナの部屋から聞こえた。
サユミの部屋からは物音1つ聞こえこない。
祈りを邪魔しないように足音と声を潜めて部屋に向かう二人。
階段寄りのミキの部屋の前を過ぎようとしたところで、リカは後ろからスリープシャツの裾を引っ張られて、ぱっと手を取られた。
「ミキちゃん?」
振り向いたら、ふふーんってにっこりと笑顔のミキ。
リカはそのまま手を引いた。
パタン。
リカの部屋のドアが閉まる。
夜が明ける頃には、たぶん二人とも夢の中。
満月がブルースハープの音色に耳を傾ける。
満天の星空が明日は晴れることを教えてくれている。
今はまだひたすら静かな夜の中。
イヤんなるくらい短い夏の夜。
時間だけが7人の周りをせっかちに流れていた。
(2004/6/28)
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