カランカラン。
渋い木目調のダークブラウンのドアが軋んだ音を引き連れて開いた。
ランプの明かりほどのぼんやりとした橙色の照明。ほの暗い店内。
L字になっている7人ほど座れるカウンターと4人がけのテーブルが一つ。
そして、その反対側の壁に備えられた古いピアノ。その横にはでかいアンプとクラシカルなモデルのエレキギター。
入り口の横手の隅にはジュークボックス。
壁にかけられた時計の針が8の上を通り過ぎようとしている。
カウンターにはマスター。そして、女が一人。
ドアのベルが揺れる乾いた音を聞いて、カウンターの女が金色の髪を橙色の淡い照明に煌かせて振り向いた。
「よぉ。早かったやん」
女がグラスを掲げると、グラスの半分ほどの琥珀色が揺れて中の氷がカラ…と音を立てた。
ドアを閉めて、ふんっと零れ落ちたため息。
あーあぁ。ちょっとぉ、ユウちゃん、もぉ酔ってんじゃん。
艶やかな長い髪をいらだたしげに掻き揚げると、目の前でグラスを片手に悪びれた様子もない酔っ払いをにらみつけた。
「もぉ。早かったって…急に呼び出さないでよ」
「えぇゃん。どーせ暇やったんやろ?」
「そーだけどさぁ…」
「なら、えぇやん」
「…」
言いたいことは山ほどあるが、カウンターをさっと見渡すと、とりあえずつかつかと機嫌悪いですと言わんばかりに靴音を立てて左隣に座った。黄金色に輝くシャンパンが置かれた右隣にはすでに先客がいる。
すっと足を組み、カウンターに両肘を突いて組んだ手の上に顎を乗せ、隣の不敵に笑う酔っ払いをもう一度にらむ。
淡い橙色の光がそれらの一連の動作のシルエットを壁に描き出す。それをうっとりと眺めていたユウコは、そんな視線に気づいて愛しそうに目を細めた。
「そんな怒んなくったってえぇやん」
「…」
「カオリ、あんたがそんなんしたって、かわいいだけやで」
「ホントはそんなこと思ってないくせに…」
「アホ。何ゆぅとるかな。ごっつかわいーで。ヤグチの次ぐらいに」
「…バカ」
比べる対象間違ってる。
けれども、ちょっとだけカオリの顔に浮かんだ微笑。
ユウコはふふふっとまた目を細めて笑顔で顔を近づけると、カウンターに向かって声をかけた。
「マスター」
ひげが素敵な初老のマスターは小さな笑みを口元に浮かべてうなずくと、くるりと背を向けた。
「ユウちゃん?」
ちょこんと首を傾げるカオリ。
ユウコはふっ…と笑ってグラスを傾けた。
カラン…。
氷がグラスにぶつかって透き通った響きがほの暗い闇の向こうへと消えていく。
カオリはなんとなく店内を見回して、ギターに目を留めた。
「あれは?」
珍しいね…と呟くと、ユウコはちらりとギターに目をやった。
「あぁ。ここの常連やった人が置いてったらしいんやて」
「ふ〜ん」
と、なんとなくうなずいてカオリは甘えるような上目遣いでユウコを見上げた。
「ん?」
「ん? ふふふっ」
にこりと微笑むカオリ。
ユウコはすっと視線を外して困ったように笑った。
「なぁん? 恥ずかしいやん。あまり見んといて」
「いいじゃん」
ばか…と呟いて水割りを呷るユウコににこりと微笑むカオリ。
ステアされてくるくると踊っている氷がカランカランとグラスにぶつかる軽やかな音。
ほどなくして、カオリの前にことっと置かれたトールグラス。
「まっ、呑みぃ〜や」
「もう。居酒屋じゃないんだから」
むうっと頬を膨らませつつ、炭酸の泡が弾ける淡い金色のグラスを手にすると、
「えぇやん。二人しかおらんのやし。な?」
「…もぉ」
カン!
グラスの乾いた音がほんのりとした橙色の明かりに消えていく。
カオリはぐいっと勢いよく遠い黄昏時の色をしたアルコールをのどに流し込んだ。ジンジャーエールの粋な辛さとのどをスキップしていく炭酸が気持ちいい。
「なんなん…。自分だっていい呑みっぷりやん…」
「いいじゃん…。のど渇いてたんだもん」
カオリは半分ほどまでに減ったジン・バックをコースターの上においてユウコを横目で睨み付けた。
そんな拗ねた様子にご満悦なユウコはぽんっと頭の上に手を乗っけると、よしよしと目を細めて撫でてやる。
「もぉ…。ユウちゃん!」
「えぇやん。そんなに急いで来てくれたんやもん。うれしぃやん」
「…だってさぁ…」
これも一本の電話から始まった。
『はい。第8前線基地第7兵舎です』
『おぅ。イシカーか』
どこのオヤジかと思ったが、その声にツッコミをぐっとこらえたリカの胸に過ぎった不穏な気配。
『はい。ご無沙汰してます。ナカザーさん。元気ですか?』
『まぁ、ぼちぼちやな。ところで、カオリ、今おる?』
「急すぎるよ…。そもそもさぁ…」
『今、射撃場だと思います』
『そか。じゃあ…』
リカに店の場所を教えると、
『じゃ、待ってるからな』
『…』
告げられた店の場所は車を時速100キロで飛ばして1時間半。
リカはそろーっと時計に目をやった。
19時38分。
あぁ…夕食の片づけが終わって一段落だもんね…。
『イシカー?』
『はい!?』
『なぁ、イシカー』
『はぃぃ…』
『上官の命令は?』
ふふんと笑う声が聞こえたような気がした。
なにがなんでも連れて来い。
『…絶対です』
ごめんね。カオたん…。
「…もぉ。職権乱用だよ…」
申し訳なさそうなリカ。その後ろで怪訝な顔をしているミキ。
カオリはやれやれとため息を吐いた。
「カオだってあぁ言われたら断れないのに…」
クソマジメに上官の命令を守る運転手が120キロでかっ飛ばすジープ。正直背筋が凍った。
なのにその呼び出した当の本人はにやにやと笑ってるし。
「えぇやん。たまには」
「たまに…って…。まぁ、そーだけど…」
「今日はまぁ、こっちの方に用事があったからやけど。せっかくやもん。呑みたいやん。カオリだってもぅオトナなんやし」
「んー…」
どう答えていいのか難しい顔をしたまま首を捻るカオリにふふと微笑みかけ、ユウコはグラスに4分の1ほど残っていた水割りを一気に飲み干した。
「…付き合ってくれる子も…あんまおらんし」
「…」
肘を突いて空になったグラスを柔らかい目で見つめるユウコの向こうで、ひっそりとたたずむシャンパン。
また一つ、また一つと静かに泡を浮かべるシャンパングラスから目を離すと、ふいにユウコと目が合って、カオリはなんとなく慌てて目をそらした。
ふっ…と、ユウコが笑った。
「今日はな、カオリと呑みたかってん」
「…」
「なっちでもヤグチでもあっちゃんでもみっちゃんでもなく…カオリと」
そして、シャンパングラスに向かって「な」と小さく首を傾げて囁いた。
『いいじゃない。たまには』
「…」
シャンパンの泡がまた一つ、また一つ弾ける。
カオリはグラスを手にすると、すっと腕を伸ばした。
カン!
シャンパングラスとトールグラスの生み出す透明な響き。
カオリは残ったジン・バックを一気に飲み干した。
「マスター。バーボンを。ロックで」
銘柄はマスターに任せると、ふぅと息を吐き出して、ユウコに微笑みかけた。
「呑まないの?」
「え…。あぁ」
ユウコは同じものを頼むと、
「なんや…オトナになったなぁ…」
としみじみと目を細めた。
「まぁね」
空のグラスをマスターに手渡すと、カオリはもう一度店内を見回した。
「いい所だね」
「そやろ。視察で来たときに見つけてん」
「ふ〜ん」
「旨いのはもちろんだけど、意外に知られてないトコやし、値段も手ごろ、なんと言ってもマスターがえぇ人やし」
マスターが照れ笑いを小さく口元に浮かべて会釈する。
なんかその微笑がかわいくて、カオリはくすっと笑った。
耳障りにならない加減で店内の後ろに流れる緩やかなナンバー。
カランカラン。
穏やかなメロディーの上にかぶさるように揺れて響き渡ったドアベル。
重いドアが軋んだ音を立ててゆっくりと開いていく。
ユウコとカオリが振り向くと、そーっとドアから顔を覗かせる緊張に強張ったリカとミキ。
いらっしゃいませ…と言うマスターの温かみのある低い声と、ユウコとカオリの笑顔に二人の顔が少しだけ綻んだ。
「ほら。入ってきぃ。大丈夫だから」
ユウコが手招きすると、ゆっくりとドアを閉めてリカとミキは店内に入った。
初めての場所にきょろきょろと視線が動く。
そんな二人がかわいくて、カオリとユウコに自然と浮かび上がる微笑み。
「てきとーに座りぃ」
「はい」
リカはざっとカウンターを見渡すと、ミキの手を引いてユウコの右側に一つ間を置いて座った。
「リカちゃん?」
とりあえずリカの右隣に座ったミキが空いている席を指差す。
「うん。もう、座ってるから」
「は…?」
けど、ユウコもカオリも笑っているだけ。誰もいないリカの左隣、ユウコの右隣にはシャンパンのグラスが一つ。
ミキは怪訝そうに目を凝らした。
『ちょっとっ。なによぉ』
「あ…」
そっか。なるほど…。
でしょ?
「さびしがりやさんだからね」
リカはそう呟いて佇むシャンパングラスに微笑んだ。
ユウコはグラスを受け取ると、マスターになにやらオーダーした。
それを見たリカは、
「ナカザーさん、あんまり呑みすぎないでくださいよ」
と言ってみたものの、
「イヤ」
返ってきた答えはあまりにも簡潔。
「何でですかぁ!」
「だってカオリと呑むんだもん。こんなキレイな子とおったら酒が進むに決まってるやん」
「えーっ。でもぉ…」
「それに、リカちゃんがおるしな」
にやにやと笑うユウコ。
だよね…と、すーっと真っ青になっていくリカ。
「呑みすぎてもいいですけど…おとなしくしてくださいね」
たぶん無理だと思いますけど…。
「大丈夫。ミキがいるから」
ポンと励ますようにリカの肩を叩いて言ってみたものの、なんとなく空しく感じるのはなぜだろう。
そんなミキにリカはちょっと困った顔のまま微笑み返した。
「あーあー。ほんまらぶらぶやな…」
「でしょ。いつのまにって感じなんだけどねぇ」
相変わらず見詰め合っているリカとミキ。
シャカシャカとシェーカーを振る小気味いい音が通り過ぎていく。
「ま、えぇやん。悪いことやないし」
うらやましいけどな。
ユウコはカウンターの下でしっかりと手を繋いで楽しそうに話す二人に目を細めて笑った。
軽やかなシェーカーの音。
曲が変わって新しいレコードから切ないバラードが流れてくる。
リカとミキの前に置かれたカクテルグラス。
「わぁ…」
「キレイ…」
そんな感嘆の声にユウコが嬉しそうに微笑む。
「未成年やからノンアルコールな。特にイシカーには運転してもらわなあかんし」
「なんか…かっこいい」
ミキは女性らしいしなやかなスタイルのコリンズクラスに入った透き通ったカクテルを手にした。
「それはサラトガ・クーラーっていうんやで」
「じゃあ、これはなんですか?」
リカが華やかなオレンジ色に染まったカクテルグラスを手にする。
「それはシンデレラや」
「シンデレラ…。ふふっお姫様だね」
「あれっ。この人自分で言ってるし」
「いいじゃーん」
言うだけならタダじゃない。
じゃない。
「自分の歳も自覚しようね」
「あっ。ミキちゃんってばひっどいなぁ。まだまだサユには負けてないつもりなんだけどなぁ」
「つもりでしょ」
「んー…。いや…その…」
「まっ。ミキにとってはお姫様だけどね」
とさらりと呟いて、ニコッとリカに微笑みかけた。
「もぅ…」
かっこよすぎ…。
ちょっと赤くなってるかもしれないなと思いつつ、
「呑んでないのに酔ってる? ミキちゃん」
と怪訝そうに顔を近づけたら、ぱっと唇を奪われた。
「酔ってるかもね」
グラスのふちを指でなぞって、ふふっとリカに流し目を送って微笑むミキ。
頬杖を突いてそんなやり取りを微笑ましく見ていたユウコは、
「なんやフジモト、オトナやなぁ」
と言うと、グラスを掲げた。
「ほら、乾杯や」
カン! カンカンカン!
軽やかな音を立ててグラスがぶつかり合う。
透き通ったさわやかなのど越しにミキが「くーっ」と唸った。
「おっいしーっ!」
そんなミキを見て、リカはそっとグラスに唇を当ると、ゆっくりとオレンジ色のカクテルをのどに流し込む。
ひょこっと眉があがって、ミキが「んー?」って覗き込む。
「わぁ…」
「ん? イシカー、うまいか?」
「はい!」
「ねっ。ミキにもちょっとちょうだい」
「うん。じゃ、ちょっと飲ませて」
はしゃぐ二人の姿にカオリとユウコの表情も自然と和らぐ。
「なんや、初々しいなぁ」
「ね」
「イシカー、それは、冷たいうちがうまいんやで」
と、言ったら、
「もう飲み終わっちゃいました」
えへ。と笑って、空になったカクテルグラスを振るリカ。その後ろでミキも空のグラスを同じように振っている。
「なんやの。もぅ、もうちょっと味わって呑まな。ねぇ、マスター」
けれど、マスターはうれしそうに微笑むだけ。
ユウコはふと、視線を落として何やら考えるような顔をすると、
「マスター、二人にシャーリー・テンプルを」
マスターが一つうなずく。
「今度はちゃんと味わってな」
「はーい」
「はい」
揃った返事にちょっと苦笑いのユウコ。
カオリはくすくすっと笑った。
「普段はお姉さんだから、なんか二人ともかわいく見えるね」
「なーに言ってるんですかぁ。いっつもかわいいですよ。ね。リカちゃん」
「ね。ミキちゃん」
「あーもー。二人があっついのはよぉわかったから。あんま目の前でいちゃいちゃせんといて」
ユウコがわざと眉を寄せて呆れたようにしっしっと手を振る。
リカはえーっと眉を下げて困ったように笑った。
「無理言わないでくださいよぉ。じゃあ二人の世界に入っちゃうんで、ナカザーさんこそ邪魔しないでくださいよ」
「はいはい。いってらっしゃい」
ひらひらと手を振るユウコ。
カオリはすっとユウコの腕に自らの腕を回して身体を寄せた。
「いいもん。こっちだってらぶらぶだもん」
ねーっ、うなずきあうユウコとカオリ。
そんな二人を見てクスクスッと顔を見合ったリカとミキの前に置かれた二つのタンブラー。
淡い火の明かりのような透き通った赤褐色のグラスを手にして、カチンと合わせると、リカとミキはユウコに向かっていただきます…とグラスを掲げて見せた。
うなずき返して、ユウコはバーボンを一口含んだ。
のどを焼くように通り過ぎてわずかに顔をしかめる。はっと吐き出した息はほろ苦くて、なんなとく笑えた。
「なんやなぁ…。ほんま…オトナになったな」
「ユウちゃん?」
「んー。なん? そんな不思議そーな顔して」
「だって…。ユウちゃん、すっごく遠くを見てるから」
「そーか?」
「うん。ねぇ、ユウちゃん」
カオリは組んでいた腕を解くと手をそっとユウコの肩に置き、顔をのぞこんだ。
「まだ、そんなに時間…経ってないよ」
真剣に見上げる瞳。
たぶん精一杯の言葉なのだろう。こうやって大きな瞳を潤ませて、じっと自分を見つめる強いまなざしはあの頃と変わらない。
「そやな。けど…うちらだって6年も経ってるんやで」
うちら、何やってたんやろうな。
「6年か…。そう言われれば…早いね」
あたしは何を見つけたんだろう…。
毎日がガムシャラで、戦場に立てば生きていくだけで精一杯で…。
何人が去って、何人がやってきて…。
誰かが去って、そのたびに心に一つ穴が空いたようで。
誰かがやってきて、そのたびに少しずつ心強く感じたように思えてきて…。
『ここでやるべきことは全部終わった』
そう言って軍を去った早熟の天才は、今他国で政治について学んでいるという。
『力じゃダメなんだよ』
あの時のナツミの荒れようはすごかった。
泣きじゃくって泣きじゃくって…。
そうだよね。妹みたいだったもん。
「…せやろ」
走って走って走って走って…。
『悔いは無いよ』
手に入れた一つの幸せのあり方。空に向かって投げられた花束。
『ずっと見てるから。あたしはあたしでさ、新しい戦場に出向くだけなんだよ』
かっこいいこと言ってたよね。
その言葉どおり、子育てというにぎやかな楽しい戦いの日々。
今度はいつ軍に遊びにくるのかなぁ。
進む道は違うけど、心は一緒だから。
「うん。いろいろあったね」
アスカが去って、アヤが軍を離れて…。
サヤカが軍を飛びだしていったのも今思えば懐かしい。そういえば緑が鮮やかな時期だったね。
今隣にいるユウコは本部に召喚され、そのまま昇格して本部異動で隊を離れた。
マキも昇格して娘。隊を離れて、本部配属になった。
そういえば、ケイが空に旅立って行ったのも、緑が美しい夏の初めだった…。
シャンパンの泡の勢いが緩やかになる。ただ静かにそこに佇んで、その後ろをささやかに流れるどこか悲しげなナンバー。
だけど、それだけじゃない。
カオリはふと、視線を頬杖を突くユウコの向こうに流した。
「考えてみたら…4年だもんね」
リカの華奢な後姿。それでもあの頃はもっともっと頼りなく見えたのに…。
普通の女の子の小さな背中だってわかっているのに、一緒に戦ってきた年月が作り出したしっかりとした頼もしい背中。
「そや。あのリカちゃんがあんなやで」
今や軍の中でも押しも押されぬスナイパー。
「そうだよね…」
倒れても倒れても焦点の合わない目で立ち上がって追いつこうとするリカ。
影で悔しさとふがいなさに声を殺して泣いていたヒトミ。
弱音を吐くまいと歯を食いしばって目に大粒の涙を溜めて見上げるノゾミ。
負けじと睨み付けたアイの目からすっと零れ落ちた涙。
「早いよね…」
今でこそさくら隊副隊長のマリも、入ってきた時はただちっこいだけで大丈夫かコイツと思った。
そのクセに負けん気ばっか強くて…。
でも、いつのまにかなくてはならないムードメーカーになってた。
空に帰ったケイも、なんか真面目でかたっくるしいし。なんかちょっと暗いし…。
でもその頑張りと気遣いはありがたかった。いつもそれとなく支えてくれてた。
いつだってそうだ。いなくなってみて気づくんだ、大きな存在だったことに…。
すごい子が入ってきた…。
マキの持つ雰囲気は怖かった。何かを背負ったような鋭い目。
だけど、笑うとかわいくて、なんだけっこう甘えんぼさんなんだってわかったら、なんかほっとして、嬉しかった。
「なんかなぁ…」
その間、自分はどれだけ変わったんだろう。
カオリはそっと目を閉じた。
また一枚のレコードが終わる。
ユウコがバーボンのグラスを傾ける音。
リカとミキの楽しそうな話し声。
ユウコの後を受けて隊長になった。
不安で不安で仕方なかったけど、一人一人がまっすぐに前を見つめていて、心強かった。
頑張れるって思えて、だから、みんなを引っ張っていけないにしても、せめて支える隊長になろうと思った。
そしてそれからいくつかの戦場を駆け抜けて…。
ぐっと歯を食いしばって厳しい訓練に臨むまっすぐなアイの瞳。
入隊してその理想と現実の羽間で悩むマコトの横顔。
どんなに辛い訓練だろうと黙々と挑むアサミの真剣な表情。
小さな体で必死についていこうとするリサの強い意志に満ちた眼差し。
あぁ…。そっかぁ。
「ねぇ、ユウちゃん」
「ん?」
「うん。あたしね、幸せだなぁ」
いつも強気なレイナ。
芯の強いサユミ。
負けん気の強いエリ。
そして、経験と高い能力を持つミキ。
「なんかね、すっごい宝物…もってるんだなぁって」
いつまでたってもふるさとの言葉が抜けない田舎娘。
イヤんなるくらいの腐れ縁。だけど、けっして目を離すことのできない相手。
ケンカした。口も利きたくなかった。今も時々大して変わんないかも。
でも笑いあった。やっぱりなんだかんだってお互いよくわかってて…。
あの子は太陽。だからあたしは月になる。
だからって陰になったわけじゃない。
満月はね、真夜中の太陽なの。
あんたが頑張るから、あたしだって頑張るの。
ナツミにできて、カオリにできないこと。
カオリにできて、ナツミにできないこと。
神様は、うまく作ったもんだって思う。
「ふふっ。そう思わない?」
隊は2つに分かれたけど、それでも誇りに思う。
自分がこんなすごい部隊の隊長だったということを…。
「せやな」
うちもな、同じ気持ちやで。
ユウコはふっと微笑んで、またグラスを呷った。
カオリも一口、バーボンを口にする。
カランと氷が鳴って、微かな響きは淡い闇の中へと消えていった。
ユウコはすっとカオリの左手を取ると、かすかに残る傷跡の上をそっと指で辿った。
「…ユウちゃん」
「なんや…もう…痛なぃんか?」
カオリはコクリとうなずく。
ユウコはふふっと目を細めて笑った。
「懐かしいなぁ…。ユウちゃん…あん時心臓凍ったで」
ざわめくシャワーの音。
タイルの上に排水溝に向かって描き出された数本の赤い線。
消灯してから3時間。
あまりに不自然な頃合の音に気づいたのは、たまたまトイレに行こうとしていたケイだった。
ぼんやりと傷口を見つめる生気のない眼差し。
シャワーから流れ出す湯に打たれるまま、シャワーブースの中にぺたりと座っていたカオリ。
右手には軍支給の安全かみそり。
一瞬訳がわかんなかった。
けれど、ぴたっと頬に落ちた水滴がはっと我に返してくれた。
「ケイ坊が血相変えて飛び込んでくるからなんやと思ったわ」
「あの時って…まだケイちゃんとあんまり仲良くなかったんだよね」
「でも、来てくれへんかったら…なぁ…今頃…」
「うん…」
カオリはなんとなくくるくると回していたグラスを口元に運ぶと、わずかに残っていた琥珀色の液体をのどに流し込んだ。
結局現場の見た目ほど傷はたいしたことはなかった。
けれどそれよりも心の方は深刻で…。
窓の外をぼんやりと眺めながら、ノートに綴っていた簡単な詩はなにもかも否定的だった。
つまんないよ。
生きてたって。
だって殺しあって、憎みあって。
やだ! もうやだ!
みんななくなっちゃえばいいんだ!
今もたいして変わんないかなぁ。
時々その頃のノートを見てふと思う。
軍に入った頃は自分が国を救うんだ…って、英雄気取りだった。
けど、現実は泥にまみれて、埃にまみれて、血の臭いと死の気配を体にまとわせてただひたすらに前を目指す。
抱えていた理想とか、本当はどうでもよくって、ただ殺せ殺せと追い立てられる。
一方的なエゴにすぎないかもしれない自分達の崇高な理想をゴリゴリと刷り込むように、繰り返し繰り返し…。
気が狂いそうだ。
飛び交う銃弾前では、それは真実なの?
ほら。ごらん。死の前には誰だって平等だ。
何の区別もないんだよ。
消えておしまい。
ここは戦場なんだ。
目の前で誰かか死ぬなんて当たり前。
ほら、オマエが撃った銃で人が死んでるじゃないか。
同じこと。
敵だろうが味方だろうが。
あたしたちって何?
ねぇ、教えて?
そんなことを知りたがるヒマがあるなら、引き金を引け!
もう嫌だ!
所詮、捨て駒なんだ。
英雄なんて言ったところで、結局は人殺しなんだ。
あたしの手は真っ赤だ。
あたしは穢れている。
………
……
でも、じゃあ、誰がやるの?
どうすればみんなを守れるの?
あたしには、何ができるの?
今も答えなんて出ない。
わかってるのは、ただ前に進むだけ。
でも、できるだけなら、もう誰の死も見たくない。
だから、だから頑張ろう。
カオリは傷跡に触れたままのユウコの手を取ると、そっと握った。
「もぅ…大丈夫だから」
「…」
「ね。時々わかんなくなっちゃうけど、でもね、大丈夫」
やわらかい、だけど強い瞳の輝きを伴った微笑み。
ユウコはしっかりと目を見てうなずいて、きゅっと手を握った。
いつのまにか話を止めてカオリを見つめていたリカとミキにも微笑みかけたら嬉しそうな笑顔が返ってきたから、なんだかくすぐったかった。
「ありがと」
「…なんやの…まったく…」
そんな風に呟きながら、だけどもう一度ぎゅっと握ると、ユウコは空になったカオリのグラスを取り上げた。
「マスター」
ユウコはマスターに手にしているグラスを渡すと、壁の方へと何かを指し示すように視線を流した。
どうぞ…と言うマスターに紙のコースターに何やら書いて渡すと、ユウコは席を立った。
「ユウちゃん?」
「ん?」
ユウコはとぼけるように笑って壁際に置かれたギターを手にすると、アンプをいじり始めた。
「…ユウちゃん」
「久しぶりやな…」
騒がしくならない程度に音量を加減すると、軽く爪弾いて鋼鉄の弦を震わせてみる。
軽く唸ってやわらかい橙色の照明の中に消えた澄んだ音。
申し分のないチューニング。渋い味わいのある音色。
「ん。えぇ感じや…」
呟いて、ユウコはカウンターから手近にあったイスを持ってきて座った。
ユウコの細い指先から紡ぎだされるメロディー。
はかなく、せつない悲しい歌。
アンプから響き渡る透き通った音。
リカは立ち上がると、ユウコに微笑みかけた。
「リカちゃん?」
ミキが首をかしげて見上げる。
なんか、懐かしい…。
そう言って、リカが向かった先はピアノ。
きちんと手入れされている鍵盤に指を置くと、ユウコの奏でるギターに合わせて軽やかに動かした。
重なり合った二つの音が生み出す一つの曲。
さびしげで、そしてひどくせつなくて…。
思い出はいつだって胸の中。
美しく輝いて…。
心の底で揺らめいて…。
美しすぎて、ふと涙が溢れてくる…。
やわらかいピアノの音色のやさしさ。
ギターのせつない響き。
『あっ、のんも混ぜてよ!』
『じゃあ、うちドラム叩くわ』
『あたし、ウッドベースできますよ』
小さい身体で力強い音色を出すノゾミのブルースハープ。
器用にスティックを捌くアイのジャズドラム。
少し独特で、だけど味のあるヒトミのウッドベース。
カオリの目の前にぼんやりと滲んでくるいつかの日々。
ユウコはちらりとリカに目をやると、リカもにこっと微笑んでうなずいた。
小さいストロークで曲を締めると、そのまま軽やかにリカがイントロを奏で始める。
軽快なテンポ。陽射しのようなメロディー。
ミキは綺麗に重なり合う二つの音に自分の歌声を重ねた。
それは初々しい恋の歌。
楽しそうに歌うミキの横顔にすっと浮かび上がる面影。
『あら、あたしも混ぜてよ』
ケイが宇宙人と田舎者と眠り姫がいない隙を狙ってメロディーを歌いだす。
黄昏色のシャンパンの泡が一つ、また一つ弾けていく。
カオリの目からすーっと涙が零れた。
『あっ! ケーちゃんずるいっ!』
『あー! カオも入れてー』
『ごとーも歌うー』
ケイに合わせてハーモニーを合わせながら、最後にはリードしているナツミ。
その二人に合わせてコーラスしながら、時折さらっとメロディーを歌うカオリ。
ナツミに合わせてメロディーをハモリつつ、気がつけばリードしていたりするマキ。
そーいえば、そんなこと、してたよねぇ…。
今思えばちょっと拙い演奏だったけど楽しかった。
兵舎の娯楽室の窓から差し込むやわらかい金色の陽射し。
みんなの笑顔。歌声。
そう昔のことではないのに、ひどく懐かしいと思えるのはなぜだろう?
カオリはミキの声に自分の声を揃えて歌いだした。
どこまでも初々しい恋の歌。
愛しい彼女を見つめて歌うミキの顔はやさしくて、なんだかくすぐったいなとリカが小さく肩をすくめる。
カオリはシャンパングラスを手にした。
黄昏の色の中、泡が一つ、また一つ浮かんでは消えていく。
そっとグラスに口付けて、隣に座って歌っているであろう彼女の声を聞きながら、胸の中の想いを込めて歌った。
橙色の淡い照明。
やわらかい光の中に溶けて消えていく恋の歌。
やさしくて、あたたかくて、ちょっとせつなくて、なのに甘い恋の歌。
ギターの澄んだ余韻が心地よかった。
ユウコはギターを置いてまたカオリの隣に戻ってくると、頬杖をついて穏やかに目を細めた。
コトン。
そんな二人の前に置かれた清楚な白に染まったオールドファッション・グラスが二つ。
「これはな、流れ弾に当たって腕の中でなくなった恋人を悼んで作られたんやて」
「…」
真っ青な空の下、目の前でゆっくりと倒れていく兵士の後姿。
「もっとも…それは狩猟場の話やけどな」
ユウコはグラスを手にすると、淡い照明に透かすように掲げた。
「場所も意味合いもなんも違うけど、祈ろうや」
凶弾に消えていったたくさんの魂に。
「せめてもの…手向けの代わりに…」
祈りを込めて…。
カオリは手にしていたシャンパンを一気に飲み干すと、グラスを手にした。
カン!
二つのグラスが響きあう。
透き通ったその音は静かに橙色の光の中へと消えていった。
*
半分ほどに欠けた月が弦を上に向けて屋根の上に昇ってきたところで、ユウコは鼻歌交じりにご機嫌だった。
まだなんとなく蒸し暑さは残るものの、頬を撫でる風に秋の気配。
カオリとリカでそんなユウコを支えてようやっとドアを潜り抜けた。
「もぅ。ユウちゃん呑みすぎだよぉ」
「えぇやぁん。楽しいやんかぁ」
あーあー。そりゃ楽しいけどね。
カオリからやれやれと零れ出るため息。
そういえば、こんなことも久しぶりだなぁ。
リカはにこにこと楽しそうなユウコの身体を支えながらふと思った。あの頃はこれに加えてケイがいて…。本当に収拾がつかなくって、だから呼びだされたらよく泣きそうな顔でよっすぃにお願いしてついてきてもらったっけ。
とにかくこーゆーときは車に押し込んでしまうのが一番。
カオリも泣き顔のリカと困惑したヒトミにお願いされて酔っ払い二人を拾いに来たことがあるのでよくわかっている。
「リカ、ミキ。とりあえず車をこの辺まで持ってきて」
「カオたん、一人で平気?」
心配そうに見上げるリカにふんわりと微笑み返す。
「大丈夫。このままにしておけばそのうち寝ちゃうだろうから」
「それだったらこっちで寝かしちゃった方が早いんじゃないですか?」
グーを目の前に出してミキが何の気なしに言うと、カオリは『じゃあ、やってごらん』と微笑んだ。
ふむ。
ぎゅっと拳を握り締める。
「あー。えぇ風やなぁ」
気持ちよさそうに目を細めるユウコ。
ミキは殺気と気配をぎりぎりまで押し殺すと、
「ふっ!」
ユウコのみぞおち目掛けて突き上げるように小さなストロークで拳を振り上げた!
キラリ。ユウコの目が光ったような気がして…。
「げふっ!」
体がくの字に曲がったのはミキの方だった。
しっかりと拳を左手でブロックされ、代わりに深々とミキの腹に突き刺さった右拳。
瞬きの瞬間の出来事。
「お酒呑んだ時のユウちゃんってさぁ、無敵だから」
遅いですよ…。今さら。
「げほげほっ!」
「大丈夫! ミキちゃん!」
リカがユウコから離れてしゃがみこんで咳き込むミキの背中をさすってやる。
頭の上の方から聞こえるケタケタと楽しそうなユウコの笑い声。
「まだまだ若いもんには負けへんでぇ」
さすが初代娘。隊隊長…。
じんわりと滲む悔しさと妙な納得。
ゆっくりと顔を上げてミキは涙目でじっとリカを見つめた。
もしかして、リカちゃんもわかってた…?
うん…。ごめんね。
頭を抱いてよしよしとミキを撫でる。
自分だって何度同じ目にあったことか…。
正直なところ、一人だからまだマシなのだ。
決して無傷では済まされなかった決死のお迎え。
迎えに行ったその翌朝のこと。
右目の回りにぐるっと青あざができたリカ、左の頬を腫らしたヒトミを見て爆笑するユウコとケイ。
全身あざだらけにされて何度締め落としてやろうかと思ったが、酔っ払い二人は更にその上を行くわけで…。
夜更け過ぎのバーのドアの前。
今思えば、そこもある意味戦場だった。
後はとりあえず禁句さえ言わなければ、たぶん大丈夫。
「じゃあ、車取ってくるね。近くだから、すぐ来るね」
なんとか立ち上がったミキを支えながら、リカが路地の向こうへと歩き出す。
カオリはその後姿が通りの角に消えるまで見送ると、やれやれとため息をついた。
そんなカオリにおやおやという顔を向けるユウコ。
「なんや。フジモトかわいそぉやん。まだ腹押さえとったで」
「もぉ。やったのは自分でしょ」
「けしかけたのはカオリやん」
「…気づいてたの?」
「当ったり前やんかぁ。じゃなかったらあんな鋭い拳交わせへんって」
…ホントに酔ってるのかな? この人…。
不思議そうに自分を見つめるカオリに、ユウコはにやっと笑って見せた。
ちょっと視線を上げれば屋根の上に寝転がっているような月。
顔を上げれば街の明かりの向こうにはいくつかの星。
よいしょとユウコはカオリの肩に腕を回してぐっと抱き寄せると、空を見上げた。
「なぁ、カオリ。英雄なんかな、おらへんねやで」
「…うん」
「うちらは所詮人殺し」
「…」
「イヤやったら、やめたらえぇ」
「…」
「でも、なぜおるん?」
空から視線を移してカオリを見つめるユウコのやさしい目。
カオリはふ…と空を見上げた。
「それは…隊長だから」
「…せやな。隊を預かる責任がある。でも、それだけや…ないやろ?」
コクリとうなずいて、カオリはしっかりとユウコを見つめ返した。
「見届けたい」
この戦いがどうなっていくのか。どういう最後を迎えるのか。
できることなら、仲間と一緒に、最後まで…。
カオリは小さく微笑んで、ぎゅっとユウコの腰を抱いて支える腕に力を込めた。
なんとなくきらりと星が流れたような気がした。
本当に酔ってるのかな?
そんなカオリにユウコはにやりと笑って、カオリはそんなユウコにくすっと苦笑いのような笑みを零した。
気がつけば屋根の上に寝転がっていた月もずいぶんと高いところにある。
「なぁ、カオリ」
「ん?」
「また、呑もうな」
ケイ坊も入れて…。
今度はヤグチもなっちも誘って。
「うん」
大きくうなずいて、ふいにカオリの胸を過ぎった一つの考え。
そっとユウコの腰を包むように抱き直した。
「ねぇ、ユウちゃん」
「んー?」
「ねぇ、キスしていい?」
どこか真剣なカオリの瞳に、ユウコはやんわりと目を細めて笑った。
「えぇよ。すきにしぃ」
そう言って目を閉じると、そっと頬を包むカオリの温かい手の感触。伝わってくる指先の緊張。
心地よく酔ってほんのりと体温の上がったユウコの唇はやさしくて、なんとなく息を止めた。
誰もいない少し狭い路地。
さらっと夜風が流れて、遠くに聞こえてくるタイヤの音。
そっと離れたら、なんだか名残惜しくて唇が妙にさびしく感じた。
はぁ…とユウコから零れた吐息。
照れくさそうに笑って、うつむいたまま乱暴にカオリの頭をかき混ぜる。
「ったく! ほんっとオトナになりよってっ」
「ふふ。そんなことないよぉ」
「なにゆぅてんのぉ。もぉ」
どっ…ドキドキしたやん…。
ほんのりと染まっていたユウコの頬が真っ赤に染まっている。
かわいいなぁ。
ついつい顔が綻んでしまう。どうやら自分もそれなりに酔ってるらしい。カオリはぎゅうっとユウコを抱きしめて押し付けるように肩口に顔をうずめた。
「ありがと。ユウちゃん。だいすき」
舌ったらずの甘えた口調。
結局、まだまだコドモなのかな。
ユウコはしっかりと抱き留めた。
それから程なくリカとミキがジープで戻ってきた。
つい思い余ってミキがマリの名前を出した途端、さくら隊の基地へ行けとダダをこねだしたユウコ。
なんだかなぁ。
宥めなるカオリの顔に浮かぶ苦笑い。
静かな街をゆっくりと走り出したジープ。
はたしてすんなりと帰り着くのやら。
少しだけ涼を帯びた風に吹かれ、藍色の夜の中に寝転がった月はにんまりと笑いながらその様子を見守っていた。
(2004/11/5)
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