雨と水割り

 真っ暗な部屋の中、ミキは25回目の寝返りを打ってため息をついた。

 カチコチと秒針の音がやけに耳をつく。

 リカはミキに腕枕をしたまま、穏やかに胸を上下させて規則正しい呼吸を繰りかえしている。
 ミキはそっと頭を上げてリカの腕を体の横に置くと、毛布を引き上げて裸の肩を隠して、ごろりと体を横に向けてリカの横顔をじっと見つめた。

 カチ、カチ…。

 けだるい体。いつもならそのままぬくもりにすべてを満たされて寝入ってしまえるのに、今日に限ってはそれができなかった。
 ザァ…とカーテン越し、窓の向こうから強い雨の音。
 なんだって今日はこんなに憂鬱な気分にさせられるのか、ミキはまたため息を吐く。
「ミキちゃん?」
 リカは向かい合うように体を横に向けた。
「…起こした?」
「ううん。起きてた」
「…ずっと?」
「うん」
 惑いのない肯定と同時に、そっとミキの体がリカの腕に包まれる。
 ミキは目を閉じて、そのあたたかさにしがみついた。
「どうして?」
「わかんない」
 揃えた指先がゆっくりと前髪をかきあげて、額に舞い降りたキス。
 腕の中でミキはまため息を吐いた。
 ミキの髪をゆっくりとリカの指が梳いていく。なだめるように、落ち着かせるように、やわらかく、そして、やさしく。
「明日…仕事だよね」
「うん」
「だったら…少し寝ないと…」
「うん…」
 緩やかな心臓の音。
 直に触れ合う肌のあたたかさとカラダのやわらかさ。
 目を閉じてみたけど、それでも眠れそうにはなかった。
「わかってるんだけど…ね」
「……」
 リカは抱きしめる腕に力を込めた。

 ザァ…。

 弾ける音。
 激しく踊り狂うように乱雑なビートを刻んで地面を跳ねる雨。

 リカは体を起こすとカーテンを開けた。
 わずかばかり明るくなった部屋。藍色に染め上げられた壁や床にうっすらと影が描き出される。
「雨…すごいね」
「うん…」
 暗闇に目が慣れたミキの瞳に映るリカの素肌。
 部屋を満たす温い空気に晒された乳房に向かってミキは右手を這わせた。
「…ミキちゃん」
 指先が乳房に触れたところで、リカがしっかりと手を捕まえる。
 手を捕らえられたミキのさびしげな瞳。
「…眠れない?」
「うん…」

 トトトトン…。
 トトトトン…。

 雨粒が窓を弾く。

 薄明かりの中、時計の針の位置を探ってみたけれど、結局はよくわからない。
 リカはふぅ…と大きく肩を揺らした。
「シャワー、浴びてきていいかな?」
「やだ」
 するっと体に巻きつく腕。そのままぐっと引き寄せられて覆いかぶさるように倒れる体を支えようと、リカはミキの頭の横に慌てて手を突いた。
 ミキがまっすぐに自分を見つめているのがわかる。
「ミキちゃん…?」
「…いいから……」
 吐息交じりの呟きは艶よりもせつなさに溢れていて、艶かしく頬を包み込んだ手のぬくもりがチクリと胸を突いた。
 戸惑いと愛しさと、悲しみと…。
「…」
 リカはゆっくりと体を沈めた。

 この指先にどれだけの想いを込めてあなたを愛したら、抱えたその悲しみは癒えるのだろう?
 暗がりの中、指先で、唇で感じる火照った肌。
 悩ましげな声が耳をかすめて、その度に胸が痛む。
 あなたが望むとおりに壊してあげることができたなら…。
 口付けは熱を帯び、虚しい考えを頭の中から捨て去った。
 あなたの望むとおりにすべてをあげる。

 余韻の中を漂うミキを包み込むリカ。
 ミキはそっと背中に腕を回すと、肩甲骨の辺りをツーッと指先でなぞった。
「…っ」
 リカが痛みにくっと少しだけ顔をしかめた。
 指先に触れた傷。舐めたら血の味がした。
「リカちゃん…」
 微笑んで触れる程度に口付けるリカ。
 目を逸らすミキ。
「大丈夫。気にしないで。痛くないから」
「でも…」
「ちょっと油断しただけ」
 そう言って起き上がると、リカは暗闇に向かって呟いた。
「もっと…深くてもいいくらい」
「…」
「シャワー、浴びてくるね」
 リカは起き上がるとベッドから抜け出して床に落としたTシャツを拾った。
 その腕をミキが掴む。
「来る?」
「…うん」
 のそっと起き上がると、リカからTシャツを受け取った。

   *

 流れ出る湯の勢いが肌に心地いい。
 地べたを這うような不安を抱きながら愛し合ってまとわりついた汗を洗い流す。
 気分を変えたいとリカは思っていた。
 ミキはぼんやりとうつむいたまま、なんとなくザーッと音を立てて降り注ぐ湯に打たれている。

 勢いに押されて抱いた。
 見上げる瞳はどこまでも灰色で、そこに自分の姿を必死になって探していた。

 衝動に任せて抱かせた。
 覗きこむ瞳は不安に震えていて、その姿が愛しくて何もかもを受け入れた。

 熱い湯に打たれて乾ききれていない傷口に触れた唇。
 後ろから腕ごと強く抱きしめられて、リカは突っ立ったまましなやかな肢体にいたずらに湯を滑らせていた。
「ミキ…?」
 くるりと体の向きを変えられ、顔を上げたと同時に唇を押し付けられた。
 ミキは強引に舌を割り込ませると、むさぼるようにキスに溺れた。

 ザーッ…。

 慌しく足元で弾ける水滴。
 背中に感じるタイルの冷たさ。
 体を伝っていく幾筋もの湯。

 熱気と激しさと…。
 眩暈がしそうな口付けは、軋んだ胸には痛いだけだった。

   *

 寝室にほのかに照らす通りの向こうの街灯のわずかな明かり。
 窓を叩く雨の音。
 ベッドに上がってなんとなくミキは膝を抱えて顔をうずめた。

 2年か…。

 それが早いのか、それとも長いのか。
 今更のようにのしかかった悲しみに戸惑った。
 そして、たぶん、あの日もリカもそうだったのだろうと、なんとなく思った。

 キィ…。

 ドアが開いてリカが入ってきた。
 カランと何か涼やかな音を伴ってベッドに上がると、ミキの隣に腰を下ろした。
「はい」
 顔を上げると、暗がりの中でぼんやりと光を受けるロック・グラス。
 手にすると、シャワーの湯で火照った手のひらによく冷えたグラスと水滴が気持ちよかった。
「…リカちゃん?」
「少しは眠くなるかもよ」
 色まではよくわからないが、たぶんリカのことだからウィスキーだろう。
 一口含むと、氷できりっと冷えたほろ苦い液体がじわりと熱を引き連れてのどを通り過ぎていった。
 気分のせいだろうか、不思議といつもよりは苦く感じなかった。むしろあっさりしすぎるくらいだ。
「どう?」
「うん…」
 差し出されたグラスを受け取って、リカも一口飲んでみる。
「うん。いい感じ。初めて上手く行ったみたい」
 1:2。この微妙な加減を失敗してどうしても強めに作ってしまうリカ。そのせいかミキはまずいとは言わないながらも、あっけなく酔いつぶれてしまう。
「うまいもんだね…」
「でしょ」
 グラスをミキに渡す。
 受け取って煽るように流し込めばのどに焼け付くような刺激。
 ふっと吐き出した息は奥にほのかな甘さを隠したまろやかな香ばしさ。
 ミキは抱えてた足を崩して胡坐をかくと、壁に寄りかかった。

 カチ、カチ、カチ…。

 なんとなく暗闇を見つめて、なんとなくカラ…とグラスを揺らす。
 リカもただ無言で暗闇を見つめたまま。

 あの日もこんな風に雨だった。

「2年経つんだね」
「うん…」
 カラ…と氷がグラスに当たる。

  霊安室にはすすり泣く声と喚く声。
  拳を床に打ち付ける人。
  冷たくなった体にすがって泣き叫ぶ人。

  家族。恋人。友達。

  何の前触れもなく、何ら大した理由もなく奪われた134人の命。
  負傷者が300人あまりにも上った列車爆破事件。

  軍付属の病院の霊安室を満たす悲嘆と憎悪。

  外は激しい雨。
  涙雨だというには少しばかり乱暴すぎる土砂降りの雨だった。

 ぐっとのどが動いて、カランとグラスが泣いた。
 ふっと息をつくミキ。
「リカちゃん…」
「ん?」
「飲まないの?」
 ミキが軽くグラスを掲げる。
「ううん。いいよ」
 淡い光に浮かびがる小さな微笑。
 ミキは胡坐をかいたままずいっと体を寄せると、肩に腕を回してぐいっと引き寄せた。
「ん? なにぃ。ミキ様の酒が飲めないってか?」
「ちょっとぉ? ミキちゃん?」
 鼻をつくウィスキー独特の煙ったい甘さ。
 ふふ…と、ミキは笑った。
「で? どうなの?」
「どうなの…って…」
 自分もさっき一口飲んでるわけだから、まぁ、酒臭くないではない。
 暗がりの中、至近距離で顔を覗きこむミキの目をじっと見ると、どうやら焦点があってないわけではなさそうだ。
「じゃあ、いただきます」
「うん」
 グラスの中でだいぶ小さくなった氷がぶつかり合う。
 ミキは一口含んで、ついとリカの顎に手を掛けた。
 口移しで飲まされた水割りは、やけに苦かった。

  黙々と身元確認作業を手伝うユウコの貼り付けたような無表情。
  激しく慟哭するミキに戸惑うアヤ。

  たぶん、後にも先にもあれだけ泣き喚いたことなんてなかった。

  灰色の、なんにも映してないような瞳。
  やさしい微笑み。
  涙に霞む視界の向こうに見えた泣き出しそうなリカの背中。

 零れたため息。
 雨は相変わらず乱暴に窓を叩いている。
「リカちゃん」
「ん?」
「まだ…気にしてる?」
「…」
 うつむいてわずかに顔を背けるリカ。
「そっか…」
「……」
「ねぇ、リカちゃん」
 リカが顔を上げると、ミキはとん…と、Tシャツに隠れたリカの胸の上に手を置いた。
「ここだから」
 ミキの手のひらに伝わるたしかな鼓動の音。
「ここが…ミキの居場所だから」

 両親はもう雲の上。
 他愛もない理由。要するにそれは気に入らないっていう、たったそれだけのこと。
 そのせいでどこの誰ともつかぬ輩に大勢の人たちが吹っ飛ばされた。

 たとえ血の繋がらない親子だったとしても、かけがえのない存在。

「たしかに傷ついたけど……」
 きゅっとシャツを握り締める。
「ミキは……よかったと…思ってる」

 この先、あの時のように泣くことはあるのだろうか?
 これから先、あの日のように怒りをぶつけることはあるんだろうか?

 たった一言で解き放たれた怒りと悲しみ。

 そっと、リカは胸に置かれた握り拳を包み込んだ。
 その手を繋いで、ミキはリカの胸に頭を預けた。
「…そばに…いさせて」
 消え入るような呟き。
 リカは慈しむように胸に置かれたミキの頭を抱き寄せて頬を寄せた。
「そばに…いてくれるんでしょ?」
 コクリとうなずいた。
 ただでさえ小柄な体が藍色の部屋の中ではよりいっそう小さく見えて、ぴったりとくっついた身体はずっと頼りなく思えた。

 月日はいつか、こんな風に思っていたことを笑い話に変えてしまうのだろうか。

  仲間がいて、戦って、傷ついて、誰かを殺めて、誰かを守って…。
  そして失って、なにがまともか見失いかけて、それでも戦って、なのに誰も守れなくて…。
  大切な人達はあっけなく消え去った。
  残ったのは悲しみと、やり場のない怒り。
  無力だと知った。

  何で戦うの?
  そこに意味はあるの?
  それだけのチカラが私にはあるの?
  守るものは何?
  敵は誰?

  なぜ、ここにいるの?

 月日はいつか、こんなキモチも遠い彼方の青い空の中へと消してしまうのだろうか。

 戦場はいつだって青空で、平穏だったあの日々も空は青かった。

 悲しい思い出もこんな雨に流して消してしまえるのなら、どんなに楽に生きて行けることだろう。
 だけどそれが正しいとは、誰も言わない。

 ザァ…。

 トン、トトン。

 たぶん、明日も一日中雨だろう。
「もう…泣いて…いいんだよ」
 やわらかいぬくもりに包まれて、ふわりと囁いた言葉はミキの瞳に涙を溢れさせるには充分だった。
 そっとミキの手から消えかかった氷の浮かぶグラスを取り上げる。
「…っ…くっ……ぅ…」
 ぎゅうっとリカの胸に顔をうずめて小刻みに震えるミキの肩。零れ落ちた嗚咽。
 薄まって少しぬるくなった水割りを一気にのどに流し込むと、リカはグラスを窓辺においてゆっくりとミキの背中をさすった。
「悲しい時は……泣いたほうがいいんだよ…」

 トン、トトン。
 トン、トトン。

 まだ、雨は止まない。

   *

 空が白む頃には、雨の勢いは少しだけやわらかくなっていた。

 それでも空一面にはライトグレーの雲。
 雨は小気味よく路面を叩き、水溜りに幾重もの波紋を描いている。

 赤いミニが小さな喫茶店の前に止まった。
「いいの?」
「うん」
 少しだけ腫れた目元で、ミキはいつものように明るく笑って見せた。
 それが強がりなのか、そうじゃないのか。
 不安げに見つめて、リカはやれやれとため息をついた。
「ホントに? 平気?」
「平気だってば」
「うーん…」
「それにね、今日みたいな雨の日じゃなくって…晴れた日がいいんだ」
「…」
「だから、ほら! 次にミキとリカちゃんが一緒の休みの日」
「あぁ。明後日?」
「うん。新聞見たら晴れそうじゃん。だからその日に…ね」
 まっすぐに見つめる瞳は穏やかで、向けられた笑顔に無駄な力はなかった。
 いつもの彼女がそこにいて、リカはいくつか小さくうなずいた。
「わかった。じゃあ、明後日は早起きしないとね」
「うん」
 ミキはカバンを肩にかけると、シートベルトを外した。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん」
 それとなく互いの顔が近づいて、重なる唇。
「頑張ってね」
「ありがと」
「終わる頃になったら迎えに来るね」
「うん。じゃあ…」
 と、言いかけて、ミキは思い出したように言った。
「ねえ、コーヒー飲んでいきなよ」
「えぇ? あー。でも…悪くない?」
「何で? 何気ぃ使ってんのよ。常連のくせに。あっ。それともミキ様のコーヒーが飲めないとか?」
 ミキがクスクスッと笑って、ぬっと顔を近づける。
 ちらりと横目で窺うと、その唇にキスをして、リカはギアから手を離してキー回した。
 低く唸っていたエンジン音が止み、震えていたミニがぴたりと動きを止めた。

 カランカラン。
 喫茶店のドアのベルが軽やかに鳴り響く。
 漂ってくる香ばしいコーヒーの香り。

 通りの向こうに見えたアジサイの鮮やかな青紫。
 雨に弾かれて揺れる大きな葉。

 朝の雨の中をすずめたちがいずこへと飛んでいく。
 西の方から感じる太陽の光の面影は、この雨がもういくらも続かないことを予感させていた。

 

(2004/6/11)

 

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