ご褒美

 草木も眠る丑三つ時…ではないが、とっぷりと日も暮れた21時35分。
 白い街灯がぽつりぽつりと並ぶ暗い山道を、とりあえず中身が詰まってる感じに膨らんだ学校指定のカバンを肩に、ちょっと丈が短めのエンジのチェックのスカートを揺らしながら緩やかな坂を早足で下っていく少女の姿。
 ユイは後ろから時折自分を照らして流れていくヘッドライトに振り向きもせず、俯き気味にひたひたと歩いていた。
「…さむっ」
 早くこたつであったまりたいわぁ…。
 若々しく生足でも寒いものは寒い。吐く息が街灯に照らされて白くふわりと舞い上がった。追いかけるように顔を上げれば満天の星空。
「めっちゃキラキラやな…」
 呟きと一緒にわずかな明かりで微かに見える白い息が藍色の空に吸い込まれていく。
 いつもなら自転車でかっ飛ばしてものの10分ほどで町中に着くが、今日はローファーの靴音を山道にコツコツと響かせることかれこれ15分。まだちょっと町の灯は遠い。
「あー…足痛なってきた…」
 やっぱバスにするんやったかな…。
 さびしい夜道に負けないように自分としゃべってみる。
 バスが来るまで35分待ち。それやったら歩いても変わらへんし…と思ったが、ちょっと甘かったようだ。
「遠いわぁ…」
 寒いし、怖いし。
 なんて思っていたら、車の低い唸り声。
 振り返ると、暗くて色は分からないが小さな車が見向きもせずにスーッとユイの横を過ぎていく。

 …はずだった。

「なん!?」
 ユイから5mほど離れて止まると、今度はバックですすーっと近づいてくる。
 逃げな!…と走り出そうとしたユイの真横でピタっと止まって、助手席のウィンドウが下りて中から誰かが身を乗り出した。
「ユイちゃん!」
 聞き慣れてもちょっと緊張感を煽る高い声。
「イシカーさん!?」
 苦笑いしながらリカがよいしょとミニのドアを開ける。
「もー。逃げないでよって、仕方ないか。ほら乗って。送るよ」
 リカが運転席に戻ると、ユイは小さく頭を下げて助手席に座った。
「すいません。ありがとうございます。もーめっちゃ怖かったんです〜」
「真っ暗だもんね。この辺」
「はい。もーむちゃくちゃ怖くて」
 バタンとドアが閉まる。
 外に比べれば少し外気が入ったとはいえ、冬の山道に比べれば格段に暖かい車内に思わず深いため息が零れ落ちた。リカがカチカチと空調のスイッチをいじる。
「ごめんね。あったかくなるのちょっと時間かかるかも」
「大丈夫です〜。十分今あったかいですよ」
「外に比べたらね」
 設定を終えて、かちんとシートベルトをしめると、
「じゃ、行くよ」
 ぶん!と唸ってゆっくりとミニが前に滑り出した。
「もーほんま助かりました〜」 
「ふふっ。なんか見たことある後姿だなーって思ったから。良かったよ〜」
「でもイシカーさん、帰ったんじゃないんですか?」
「うん。帰ったけど、一回着替えてミキちゃんのお迎え」
「フジモトさん、今日遅番でしたっけ」
「うん。それに、ユイちゃん今朝自転車パンクして歩いて来たって言ってたから、もしかしたら会えるかな〜ってね」
「あーん! もーイシカーさん大好きーっ!」
「ふふっ。なんで、先にミキちゃんのお店寄ってくね」
「はーい」
 フロントガラスの向こうにはすっかり眠りに入った町が見えている。
 あのまま歩いていればこんな景色が見えてくるのもまだまだ先のことだろう。
 なんとなく忙しなく窓の向こうの物寂しい藍色の景色に目をやりながら、ユイははーっと冷たくなった指先に息を吹きかけてさすった。
 カーブを過ぎて見えた信号がタイミングを計ったかのように赤に変わって、静かにミニが止まる。

 …。

 なんとなく無言の車内。
 ルルルルル…と低く唸るエンジンの音がやけに耳につく。
 なんとなく漂う緊張感。
 はぁ…とユイが指に息を吐き、信号が青に変わってカクンとリカがシフトレバーを動かす。

 …。

 なんとなく無言。
 そんな空気に落ち着きなく指先を温めて気を紛らわせていたユイは、ちらりと横目でリカの表情を伺うと、少し硬い声音で声をかけた。
「イシカーさん」
「何?」
「あの…今日ナカザーさんから電話があったんです。それで…」
「それで?」
「はい。やっぱり計算が違ってたらしくって、改めてちゃんとしたのを送るって.。お父さんの在職年数が他の人のになってたらしいです。ナカザーさん、ほんま申し訳ないって…」
「そっか…」

   事務仕事もひと段落した午後。
   デスクで遺族恩給給付明細と申請方法の説明文を難しい顔をして眺めるユイ。
   あまりに難解な表情をしているユイから明細を見せてもらったリカはざっと目を通すと、
  『これ、年数おかしくない?』
   と言って、おもむろに受話器を手に取った。
   電話の先は、もちろんこの人。
  『あら〜。リカちゃん! ひさしぶりやん。元気〜』 

   それが2週間ほど前の事。

「あの…イシカーさん。ありがとうございました」
「あたしは何にもしてないよ。なんとなく知ってただけだから」
「そうなんですか? いしかーさんも…?」
「あたしは違うよ。近くにもらってる子がいたから」
「そうなんですか?」
「うん。…。ナカザーさんにはお礼しないとね」
「はい。ほんま…なんてお礼言ったらいいかわんないです。おかげでだいぶ楽になるんです。お母さんもーむっちゃ喜んで…」
 ユイはカバンをぎゅっと抱きしめた。
「知り合いもおらんし、あたしとお母さんの仕事だけやと暮してくのだけで精一杯やし…。あたし、学校行かんでずっと働くってゆったんです。でも…あかんて」
 勉強できるはできるうちにしとき。
 諭すようにそう言った母の表情には有無を言わせない強さがあった。
「弟も妹もまだちっちゃいから、ほんまはあたし…働きに出ない方がいいんです…。寂しい思いもさせるやろうし…。せやけどわがまま言ったんです。勉強もするからって」
 お母さんだけに苦労させたない!
 子供には子供なりの考えと強さ。そして責任。
「知らんところやし言葉とか違うからみんな大変なんやけど、お金のことならあたしも働きに出れる歳やから。だから……いしかーさん?」 
 視界の端を何かが動いたなとちらりと目をやると、ズッと鼻をすすってリカが目の端を指先で押さえていた。
「うん。ごめん。なんでもない」
「って…いしかーさん…」
 泣いてますやん。
 …気のせいだよ。
 またほどなく信号が赤に変ったのでリカはゆっくりとミニを停車させると、さりげなく目尻押さえるように拭いながら笑ってみせた。
「…ありがとうございます。……二人目です。いしかーさん」
「へ? 何が?」
「そうして泣いてくれはったの。一人目はエリカちゃん。会社に入って…ほんままだ会ったばっかしの頃…。なんやええ人そうやし…エリカちゃんも地元の人やないし。なんでそれとなく家の事話してみたら、エリカちゃん…めっちゃ泣いてくれたんです」
 
 『えらい! えらいよユイちゃん。ぐすっ…』
  ぼろぼろと零れる涙を拭いもせず、しっかとユイの手を握って。

「なんかあったらすぐ言ってね。大したことできないけど、力になるから…って。顔めっちゃぐしゃぐしゃにして…。ほんま嬉しかった」
「ユイちゃん」
「はい?」
「あたしも、そしてたぶんミキちゃんも…同じ気持ちだよ。エリカと」
「いしかーさん…」
「本当に困ったときは、いつでもわがまま言っていいんだからね。たぶん大したことはできないけど」
 計ったように信号が青に変わって、ゆっくりとミニを発進させるリカ。
 ユイはぺこりと頭を下げて、ぽつりと呟いた。
「あたし…ほんま恵まれてるわ」

     *

 カランコロン。

 ドアの鐘が軽やかに歌う。
 18時を過ぎると喫茶ハーモニーは、長身でミステリアスなマスターの弟さんが作るカクテルと選び抜かれたこだわりのモルトが楽しめる大人の時間と変わる。
 暖色のほんのりとした照明の中をポンと飛び出した、
「いらっしゃいませ〜」
 リカちゃん。と弾んだ声。
 すでに帰り支度ばっちりでカウンターでお茶していたミキは、リカの後ろからひょこっと顔を出したユイに気づいた。
「いらっしゃい。ユイちゃん。学校?」
「はい〜。帰る途中でいしかーさんに拾ってもらいましたぁ」
 ありがとうございます〜。
 いえいえどういたしまして、とリカ。
「ミキちゃん、待った?」
「ううん。そんなでもないよ。ちょうどいいティータイムだったよ」
 ミキはカップを下げてカバンを肩にかけると、
「それじゃ失礼しまーす。お疲れ様でした」
 と、イスからぴょこんと降りた。
 するとママが3人を手招きしてカウンターの端にあるレジの前に呼んだ。
 おみやげ…と、そっと手渡された小さな白いケーキ箱。
 二人で食べてとミキとリカに。
 ちびちゃんたちにとユイに。
「わぁ! えぇんですか? すんません。ありがとうございます! ほんまちびたちめっちゃ喜びます〜!」
 今日の残り物だから気にしないでと笑うママ。
 
 カランコロン。

 店を出る前にもう一度お礼を言って、リカ、ミキ、ユイは藍色の空に白い息をふわりと吐き出しながらケーキを
崩さないよう早足でミニへと向かう。
 ひゅうと北風が頬を撫でて、
「リカちゃん! 早く! 早く!」
 と、ドアの前で急かす。
 リカが急いで鍵を開けて乗り込んで助手席の鍵を開けると、ミキは手際よく助手席を前に倒して後部座席に乗り込み、カタンとシートを戻した。
「おじゃましますー」
 ユイが助手席に座ってパタンとドアが閉まるととりあえず北風とはさようなら。リカはエンジンをかけると、すぐに空調のスイッチをいじる。
「ごめんね。あったかくなるの時間かかるかも」
「えーーーー」
 ミキの素直な反応に思わずユイが噴出す。
「めっちゃ素直ですね。フジモトさん」
「だって寒いんだもん」
 ミキはシートの間から顔を出して唇を尖らせた。
 リカは苦笑いを浮かべながら、サイドブレーキを戻してギアを入れた。
 ゆっくりとミニが動き出して道路に滑り出す。少し走り出したところでユイはそっとケーキ箱を開けた。
「わぁ! 6つも入ってる! なんか…ほんま申し訳ないわぁ…。こんないっぱい…」
「よかったじゃん。喜ぶだろうねぇ」
 リカがわずかに顔を動かしてミキに目をやると、ミキもうなずいて返した。
「ケーキってそんなに日持ちしないし、余りもんなんだからさ、遠慮しないでいいと思うよ」
「はぃ…」
 そっとふたを閉じて包むようにケーキ箱を抱えると、ユイはさりげなさを装うようにそっと頬に手を滑らせて目の端をぬぐった。
 ミキは後ろからにゅっと手伸ばしてぽすっとユイの頭に手を乗っけるとよしよしと撫でた。
「神様からのご褒美だよ。きっと」
「そうですか? なんか…いっぱいもらいすぎですわ。今日は」
「そう? いいんだよ遠慮しなくて」
「はい。でも…いいことありすぎて、なんか怖いです」
 なんでとミキが不思議そうな顔をする。
「今日、ナカザーさんから連絡があったんだって」
「あ! そうなんだ」
「そうなんです。やっぱり違ってたらしいです」
「そっか…。だいぶ楽になるんだ」
「はい! おかげさまで」
 どこか恐縮しつつも隠し切れないうれしさにぱっと弾んだユイの笑顔。ミキも「そっかそっか」とうれしそうに笑った。

 ―――
 ――

 小さな小さな古びた平屋の前でゆっくりとミニが止まった。
「いしかーさん、フジモトさん、ほんまありがとうございました」
「いいっていいって。ね、リカちゃん」
「うん。ほら、待ってると思うよ。早く行きな」
「はい。ほんまきょうはありがとうございました! お疲れ様でした。また明日」
 ドアを開けるとカバンをしっかりと肩にかけなおし、ユイは大事そうにケーキの箱を抱えながら小走りで玄関に向かった。
ミキはその間に助手席に移動してさむっと零しながらドアを閉めた。
 ユイがガラガラと引き戸を開けると、ちびたちが飛び出して抱きついてくる。ぶつかって落とさないようにさりげなく非難させたケーキの箱をちびたちに見せると、車の方を指差した。
 そして、なにやら一言告げると、ぺこりとちびが頭を下げた。
「「おおきに! いただきます〜」」
 そんなちびたちに目を細めるユイと、そして玄関口まで出てきていた母親が小さく頭を下げた。
 リカとミキは顔を見合わせて笑うと、パッと軽くクラクションを鳴らしてゆっくりと走り出した。

 小さな町の夜はひっそりと小さな息吹を立てながら寝静まっている。
 辺りが藍色の夜に包まれているとはいえ、気がつけばすっかり見慣れた景色。家まではもうすぐのよう。
 ずっと無言でぼんやりと窓の向こうを眺めていたミキはふーっと深く息をついた。
「えらいよねぇ」
「うん。知らない土地でね」
「おんなじ東の戦線にいたんだっけ?」
「うん。らしいね。もともとは西に所属してたんだけど配置異動になったんだって」
「そっか…。会ったことあるかもしれないんだね。なんか不思議…」
 リカも小さくうなずく。
「ユイちゃんもその異動に伴ってこっちに来たって言ってた」
「ふぅ〜ん」
 ミキは間延びした返事をしたかと思うと、少しだけ低めのトーンで言った。
「良かったのかな? この街に来て」
 リカは少し考えるようにうつむき気味やや顔を下げると、
「良かったんじゃないかな。少しくらいは。嫌だったら…いないと思うよ」
「そうだけどさ、帰れない事情があるのかもしれないじゃん」
「まぁね。でも、そこまではわかんないよ。あたしたちには」
「…まぁね」
 そう言ってしまえばそうでしかないわけで、ちょっと釈然としないミキはなんとなく唇を尖らせる。
 リカはそんなミキにクスッと微笑んだ。
「それにいつかは向こうに帰るかもしれないし。だからあたしたちは今できることをしてあげればいいんじゃない?」
 アヒル口のまま小さくうなずくミキ。
 リカはそんなミキをちらりと見ると、
「…ミキちゃんは?」
「は?」
「ミキちゃんは? 良かった? この街に来て」
 ヘッドライトが玄関のドアを照らしてミニがゆっくりと止まる。
 エンジンが止まって、パッとライトも消えた。
 ミキはじっと前を見つめて黙っていたが、
「リカちゃん」
 「何?」とリカが身を乗り出したと同時に唇を掠め取るように口付けて、
「そういうこと」
 と、どこか言い聞かせるような口調で言って、とっとと車を降りてさむっと体を小さく震わせながら足早に玄関へ。
 ぽかーんとリカはその後姿を眺めていたが、そっとまだしっかりと唇に残る感触を指先で触れて確かめると、思わずにやっと笑った。
「待って! ミキちゃん」
 車から降りて鍵をかけると、リカも小走りで玄関へと向かった。

 パタン。

 ドアが閉まって、ほどなく部屋の明かりが点く。
 早く部屋を暖めて、お湯を沸かしたらもらったケーキを食べよう。
 がんばっている今日へのご褒美。
 
 カーテン越しの窓の向こうは今日も冬の星座が冴え冴えと瞬いている。
 日付は藍色の空の中でゆっくりゆっくりと変わろうとしていた。


(2010/8/2)

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