シャンプー

 れいにゃがくぁ…とあくびをした。
 そこへひらひらとモンシロチョウ。
 ふわーっとれいにゃの視線が流れて、きらりと光った。

 ひゅっ!

 ふわふわと漂うチョウを振り下ろした前足が捕らえそこなうと、れいにゃはのらりくらりと舞うチョウの後を追っかけていった。
 カオリがそんな後姿にふんわりと目を細める。
 すっかり乾いたチョコレート色の地面にぴょんぴょんと跳ねる小さな陰。
 昨日までの鬱蒼とした大雨の一日はウソのようで、からりと晴れた空の青は眩しい。
 パタンと文庫本を閉じて傍らに置くと、大きく空に向かって体を伸ばした。

「カオたん」

 ふいに呼ばれて声の方を振り向くと、リカが勝手口から顔を覗かせていた。
「ん? どした?」
「ううん。別になんでもないんだけど、いい天気だなぁって思って」
 ブリキのマグカップを片手にリカは勝手口のドアを閉めると、スペースを造ってくれたカオリの隣に座った。
「他のみんなは?」
「ののはお昼寝。マコトは部屋で手紙書いてるみたい」
「あぁ、愛しいアイちゃんに?」
「うん。愛しいアイちゃんに。さっき届いたらしいよ。で、レイナとサユは今日は軍学で基礎教練でしょ」
「そうだね。で」
「で…って?」
「あんたの愛しいミキティは?」
「愛しい…って…」
「違うの?」
 カオリが『んん?』と首を傾げて大きな瞳でリカを見つめる。
 リカは小さく肩を揺らして、にらむように上目遣いで見返した。
「…違わない」
 ぼそりと呟く。
 カオリがふぅっと赤く染まったリカの頬をそっと包んでよしよしと撫でる。
 恥ずかしさで少し拗ねたように唇をうにっと尖らせるリカ。
「もぅ…」
「ふふっ。それで?」
「うん…」
 とりあえず一度深呼吸。
「今日は……うん」
「リカ?」
「ほら。だから…明後日…」
「出撃予定の日だよね? 明後日…」
 カオリは腕を組んで右手を顎にやると、ふむと目線を斜めに落として地面を見やる。
 リカはマグカップに口をつけた。
 こくっとのどがなる。
 カオリがふぅ…っと目を見開いた。
「そっか…。うん。ごめん」
「ううん…」
 リカの穏やかな笑顔に、少し申し訳なさそうに眉を下げて微笑むカオリ。
 リカはすっと手にしたマグカップを差し出した。
「飲む? 水だけど」
「うん。ありがと」
 にっこりと微笑んでマグカップを受け取る。ほんのりと冷たいブリキに唇をつけると、ふと、リカを見た。
「いいよ。全部飲んで」
 笑顔で答えて、リカは壁にくっつけて置かれた木箱の上の本に気がついた。
 コクリコクリとカオリののどがなる。ちょうど渇いていたのどに透き通った水のやわらかさが心地いい。
「読書?」
「そっ。なんかね。お部屋で読んでるのもったいなくって。ここ、お気に入りなの」
 ちょうど食堂の真ん中ら辺。目の前にグランドを兼ねた広場。少し右手にははたはたとなびく洗濯物。
 なんともいえないのんびりとした光景の後ろには、広い広い真っ青な空。
「ふーん。なんでもない場所なんだけどねぇ」
「ふふっ。そこがいいの」
「うん」
 カオリからマグカップを受け取ると、リカは木箱の上に置いた。
「うーんっ…。いい天気」
 大きく体を伸ばして見上げたリカの視線の先にも青。
「しばらく晴れるといいね」
「そうだね」
 きらきらと広場の向こうに広がる短い草が輝いている。
 穏やかな午後の始まりは、きらきらきらきらと命の躍動に溢れた光の時間。
 カオリは隣で陽射しを受けて和むリカの髪に、そっと手を伸ばした。
「カオたん?」
「久しぶりに、洗ってあげようか?」
「うんっ!」
 満面の笑顔で大きくうなずくリカ。
 やわらかい微笑を返すと、カオリはポンと肩を叩いた。

 リカはパタパタと勝手口を開けて中へと入って行った。
 カオリは洗濯機の前を通り過ぎると、その角を曲がって大雑把にいくつか積まれた木箱の中から二つを取り出して持ち上げる。
「よっ!」
 腰を入れてしっかりと上半身に預けると、慎重に歩を進め、洗濯機のそばで下ろした。
 すでにリカが軍支給のある意味無添加なシャンプーとリンス、バケツと45リットルのポリ袋、そして蛇口にホースを繋いで待っていた。
 二つの木箱をくっつけて並べると、リカは木箱の端に三つ折にして丸めたバスタオルを乗せた。
「ん。じゃあ、座って」
「うん」
 ポリ袋をごっこ遊びのマントをつけるようにして首に回し、胸元でしっかりと端を握って押さえると、カオリはリカの後ろ髪をポリ袋の上に下ろした。
 そして、カオリに頭を押さえられながらゆっくりと箱の上に横になると、首を丸めたタオルの上に乗っける。
 カオリはサッとポリ袋を垂らすと、地面に下ろした余った部分にバケツを置いた。
 リカの顔の上にかごの中から取り出したタオルを置くと、
「じゃ、いくよー」
「うん」
 少し体をひねって、蛇口をひねった。
 色褪せた水色のビニールの先からキラメキを伴って溢れ出す水。
 あたたかい陽気のせいか、少しぬるく感じた。
 ホースの先端に親指で少し圧力をかけて勢いを作ると、リカの黒髪をじっくりと濡らしていく。
「どぉ? 冷たい?」
「大丈夫。ちょっと冷たいけど、気持ちいいよ」
 右手の指先を全部しっかりと使って、強く梳かすようにしゃかしゃかと水になじませて軽く洗い流す。
 それだけでもううっとりした顔をしているようなリカに、カオリはどこかくすぐったいような笑みを零した。

 かしかしかしかしかし…。

 心地よい刺激。
 小気味のいい音。
 カラダがすうっと和んで、ふわりとした気持ちよさ。
 リカはぼんやりと浸っていた。

 カオリはホースをバケツの中に入れると、一度蛇口を閉めた。
「それじゃ、いよいよ行きますかねぇ」
 カオリはシャンプーを手にして手のひらに出すと、バケツの中の水を掬い取って泡立てた。
 泡に包まれるカオリの手。
 そっと差し入れると、両手の指で手早く、だけどしっかりと少し力を入れつつ、リカの頭に刺激を与えながら髪を洗っていく。

 がしがしがしがしがしがし…。

 すっかり泡だらけになったリカの黒髪。
 包むように右に左に、生え際にと丁寧に指を動かしていく。

「なんか…懐かしいねぇ」
「うん。よく相談したよね」
「うん。懐かしいね。あん時はもう、この子、どーなるんだろうって思ったし」
「あたしもどーなるんだろって思ってた」
 へへへっとくすぐったそうに笑うリカ。

   入隊後まもなく、特殊任務として編成された部隊に配属されたリカとアイ。
   アイとともに配属された部隊は敵地偵察と情報収集。工作への下地作りという地味な任務。
   しかし、それはとても重要な任務。

   天才と称されたヒトミ。大器と望まれたノゾミ。幼いながらも非凡なアイ。
   生きるためという一点のみで入隊したリカ。
  『…あたし………』
  『できないって思ったら、一生できないよ』
  『……』
  『死ぬときは死ぬんだから』
   まっすぐに見据えるカオリの目は怖くて、だけど冷たくはなかった。
  『できないならできないでもいいけど、やれることがあるんなら、やれることをするの』
  『……』
  『訓練に喰らいついてきてんだから、大丈夫だって』
  『だけど……』

「リカ」
「はい?」
「大きくなったね」

  『あんたができることをやれば、あたし達は誰も死なない』

「まだまだ。そんなことないよ」

  『もっとさ、あんたは自分の力を信じていいんだよ』

「まだまだ。カオたんにも、ナカザーさんにも、教えてもらうこと…いっぱいだよ」

  『ポジティヴ』
  『…ポジティヴ?』
  『ダメって考えるより、できるって考えな。カオリはリカを信じてるよ』

「ヤスダさんにだって、今でもいろんなこと、教わってるし…」
「うん…」
「でもね…ありがと」

 すっかり体の力が抜けて、されるままカオリの指の刺激を堪能する。
 そんなリカのやわらかい表情で、胸の中に広がるやさしいキモチ。

 がしがしがしがしがしがし…。

  愚痴を言えば呆れたように突き放されて、説教されて…。
  だけど、一生懸命に話を聞いて、諭してくれて…。
  いつしかカオリの愚痴を聞いてて、一緒に考えて…。
  二人して落ち込んで、けれど今度は妙におかしくなって…。

「ホント。リカとはさ、こーやって、いろいろ話したね」
「うん…」

 泡に包まれたリカの髪をまとめると、抱えて首に近い方から側面へと手を動かす。
 顔に置かれたタオルの端から、ちらりと見えたカオリの手首。
 ぎゅっと胸元のポリ袋を押さえるリカの左手に力がこもる。

「カオたん」
「ん?」
「たまにはじゃなくって、また洗ってもらいたなぁ」
「ふふ。そうだね」
「こうやって話せるの…なんかうれしい」
「うん」

 今度は反対側に少しだけ頭の向きを変えて、またがしがしと指がいったりきたり。

 何度この子の髪をこうやって洗っただろう。
 何回この人に髪をこうやって洗ってもらっただろう。

 がしがしがしがしがしがし…。

 首に近い辺りを洗い終えて、そっと頭の向きを正面に戻して髪から手を離すと、すうっとリカの右手がカオリの左手首を掴んだ。
「リカ?」
 しっかりと掴まれた手首。
 リカは笑っていなかった。
「…」
 何かを言いかけるようにうっすらと唇を開き、親指がそろそろとカオリの左手首をなぞる。
 辿ったのは、3センチ5ミリほどの1トーン明るいわずかにだけ盛り上がった一筋の線。
 よく見なければわからない、だけど明らかに不自然に刻まれた傷痕。
「…リカ?」
 何も応えず、ただじっと傷を見つめている。
 決して多いとは言えないなりにも恋をして、その度にこの傷に口付けられた。でも、不思議とうれしいとは思わなかった。
 リカは愛しむように傷の上に親指を何度か往復させると、手を放した。
「もう…痛くないよね?」
 ふわっと微笑んで、カオリの胸にじわっと膨らむぬくもり。
 こくりとうなずいて、リカの顔に置いた水よけのタオルを取り去った。
 そして、そっと顔を近づけて、目を閉じて…。
 リカの唇にふわりと重なった厚みのある柔らかなカオリの唇。

 ざわっと風が揺れて、バタバタとシャツが歌いだす。
 眩しい白が真っ青な空の中に泳いでる。

 気がつけば空には大きな雲が流れていて、太陽を隠したせいで原色に程近くなった空の青。
 目をすうっと細めて微笑むカオリ。
 パシャと頭の上の方で水の弾ける音がして、リカはなんとなく我に返った。
「さ。すすごっか」

 キュッ。

 ホースからあふれ出してバケツに飛び込む水のざわめき。
 髪に指を差し入れて、微妙な力加減を加えてわしわしとすすぐ。

 雲の陰が二人の上に落ちたかと思えば、また光が包み込んでいく。
 長期になることを見越して作られた最前線なのに木造の兵舎の二階の方から聞こえてくるハーモニカの“きらきらぼし”。
「のんちゃん、起きたみたいだね」
「うん。でも、まだ眠そう」
 ちょっとよれた2音混じったスローテンポな掠れ具合が晴れた空に不似合いで、ヘンな哀愁を誘う。
 それとなく二人して口ずさんだ。

 きらきら光る空の星は、まだ空の青の中に隠れている。
 けど、このまま雲が空を覆いつくさなければ、きっと今日はきれいな夜空が見れるだろう。

 きらきらひかる空の星は、どんな風に見てるんだろう?
 こんな自分達を…。

 きっと、なんとなく。
 そんな感じでもう一回流れてくる“きらきらぼし”は、さっきより少しだけ眠気がとんでいた。

 カオリはホースをバケツにつっこんで蛇口を閉めると、今度はリンスに取り掛かる。
 軽く手に広げると、リカの髪を包んで全体にいきわたるようにかしかしと手を動かす。

 ばらばらとロングトーンでドーやミーとかソーやら、Cとか2音3音と混じった音がバラバラと流れていく。

 手早くリンスを終えると、蛇口をひねって水を出す。

 適当に吹いてるのに飽きたのか、

「けろけろけろけろ、くわっくわっくわっ」
「けろけろけろけろ、くわっくわっくわっ」

 “カエルのうた”がのそのそと二人の上を流れていった。

 リンスを洗い流すと、カオリは蛇口を止めた。
 リカの顔の上のタオルを取ると、それで髪を包み込んでわしわしと軽く水気を拭き取ってから巻き付けた。
「はい。おわり」
「ありがと」
 リカは起き上がって巻きつけたタオルを解いてがしがしと髪を乾かすと、軽く手で整えて、ふうっ…と息をついてタオルを肩にかけた。
「なんか…すぐに乾いちゃいそうだね」
 少し汗ばむくらいの陽気。暖められた風。地平線を囲むように雲は並んでいるけれど、北東へと流れていく風が次から次からとせっせと運んでいく。
 雲に隠れてはまた現れる太陽。
 見上げて、カオリとリカは目を細めた。

 さらっとカオリの長い髪と、生乾きのリカの髪を風が舞い上げる。

 リカはうーんっと、ぎゅっと握った拳を高く空に突き上げて体を伸ばした。
「すっっごいキモチよかったぁ!」
「ふふっ。ありがと」
 とろけるような笑顔で言われて、自然とカオリの笑顔も綻ぶ。

 ガタッ!
「リカちゃん?」

 二人が見上げると、2階のたぶんそこはリカの部屋の窓からノゾミが顔を出した。
「何やってんのぉ?」
「カオたんに髪洗ってもらったのぉ」
「髪ぃ?」
「そう」
「のんちゃんも洗ったげよーか?」
「うんっ! 今行くー!」
 パタンと窓が閉まった。
 カオリとリカはふふっと顔を見合って笑った。
「のんちゃん、リカの部屋でお昼寝してたの?」
「うん。ミキちゃん見送って戻ったら、ベッド取られちゃってた」
「ふふっ。そっか」

 ばたばたとにぎやかな足音。
 リカは立ち上がってぺたんと胡坐をかいて座っているカオリの後ろに回ると、きゅうっと背中に抱きついた。
「たいへんだね。もう一人増えたみたいだよ」
「ね。みんな甘えんぼだからね。もぅ」
 とか言っているカオリはうれしそうで、
「自分だって」
 と、リカは頬を寄せた。
「ばれた?」
 って笑うカオリ。
 そっとリカの手を握って、慌しく駆けてくるノゾミとマコトの姿ににっこりと目を細めた。

 木陰で眠っていたれいにゃが『ん?』と顔を上げる。
 ふーと辺りを見回して、くぁぁ…とあくびをすると、また丸めた体に顔をうずめて夢の中へ。
 のんびりと梅雨の中休み。
 午後は今日も緩やかに流れようとしていた。

 

(2004/5/31)

 

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