冬の日の歌

 小さな小さな駅のロータリー。
 ぶんと黒い息を吐き出してポンコツトラックが止まった。

 静かな駅の改札の向こうには、駅名の書かれた少し疲れた白い看板が冬の陽射しを受けて立っているのが見える。
 少しばかり短いホームには人の姿はないようで、すずめが連れ立って歩いているのが見えた。

 駅前に並んだ商店は陽射しの中のんびりとひっそりとしていて、そこに勢いよく開いたポンコツトラックの後部ドアから飛び出したにぎやかな声が埋め尽くしていく。
 空に吸いこまれていく笑い声。
 ボン、ポンと飛び出てくる軍支給の大きなカバンや合皮のトランク。
 グレーのウールのコートにダークブルーのスーツとセルリアンブルーのベレーなんていう着なれない格好でドタバタと動き回るノゾミ、マコト、サユミ、レイナ。
 そのたびに右に左にタテにヨコにと揺れて、リカは小窓から荷台を見て苦笑い。
「あぁあぁー。まったく。荒っぽいなぁ」
「まっ、いいじゃん。はしゃいじゃってさ。かわいいじゃん」
「まぁね」

『よぉガンバっとるご褒美やて』

 ユウコから伝えられた1週間の特別休暇。
 緊迫し続けるこの状況での破格のご褒美。

 はしゃぐ声の明るさにリカはふわりと目を細めた。
「次…あるかないかだもんね」
「うん…」
 ミキは小窓から離れるとダークブルーのスーツに包んだ体をシートに深く沈めた。
 それとは対照的にブルーに袖に2本の線が入ったハーフジップのトレーニングジャージと厚手のカーキグリーンのカーゴパンツのリカ。
「そうなんだけどさぁ…」
 呟いて、ミキの視線が足元に落ちる。そこには軍支給のキャンパス地のトラベルバッグ。そしてちょこんとのっかったセルリアンブルーのベレー。
 リカもちらりとそれに目をやると、ハンドルに上半身を預けつつ、振り返って肩越しにどこかつまらなさそうな顔をするミキへと視線を移した。
「いいの?」
「んー」
「ほら。列車、来ちゃうよ」
「んー」
「ほら。ののたち、荷物下ろし終わったみたいだし」
 バタンと後ろのドアが閉まってがちゃがちゃと鍵をかける音。
 ミキはなんとなくうつむき加減のままもたれていたシートから体を起こした。
「ねぇ、リカちゃん」
「ん?」
「いいの?」
「何が?」
「何が……って…」
 やれやれと言わんばかりにミキは肩を揺らした。
 何か言いたげな機嫌の悪い唇。
 リカは寄りかかっていたハンドルから体を起こすと、所在なげに爪をいじる手を取って包んだ。
「しょうがないよ」
「…」
「もぉ。どうしたの? ミキちゃん」
「別に」
 吐き捨てて、うにっと尖った唇。
 リカは困ったなぁと眉毛を下げた。
「別にって感じじゃないんだけどなぁ。さっきから」
「…っさいなぁ。じゃあ何? ミキがいない方がリカちゃん、うれしいの?」
「そんなこと言ってないじゃん」
「だぁってさぁ」
 ぷーと膨らんだミキのほっぺ。また尖った唇。
 困ったなぁとますますハの字に下がるリカの眉毛。
「でもさ、しょうがないじゃん」
 どこに帰ったらいいか…わかんないんだもん。
 うにうにうにと相変わらずミキの手をおもちゃにして揉み続けるリカ。
 ミキはその手を止めると指を絡めて繋ぎ直した。
「…そうなんだけどさぁ…」
「大事なことなんでしょ。しょうがないよ」
「…」
 繋いでいるミキの指先に力がこもって、ゆっくりと零れた落ちたため息は重い。

 助手席の窓の向こうでは、ノゾミが駄菓子屋を見つけてマコトの手を引っ張って走っていく。サユミもまだ出てこないミキの様子をやきもきと窺っているレイナをひきずって後についていく。

 あーぁ。
 ミキからまた一つ大きなため息。
「リカちゃん」
「ん?」
「ホントにさぁ、いいの?」
 さびしいくせに。
「意地張っちゃってんじゃないの?」
「そんなことないよ。カオたんいるもん。ふふっ。独り占め」
 うふっと笑って、ミキがきしょっとやり返す。
 リカはトラベルバックの上に乗っかっているベレーを手にすると、ポンとミキの頭に乗っけた。
「それに、オオカミさんがちゃーんと守ってくれるもん。でしょ?」
「あー…まぁね。そうだけどさぁ。でもさ、やっぱホンモノの方がよくない?」
「んー。まぁ…そりゃあねぇ」
「だったら…」
 唇を塞がれて、ミキの言葉はそこで止まった。
 ぬくもりが伝わるまもなく重なった唇はあっさりと離れて、不機嫌そうに睨んだらそっと唇をなぞったリカの指先。
 指の温かさを唇に焼き付けながら目で追いかけると、手が荒っぽく結んだネクタイへと降りていく。
「大丈夫だから。ね?」
 きゅっとネクタイの形を直して整えると、リカはふわりと微笑んだ。
 この意地っ張り。
 乗っかったままのベレーを直す手を見つめながら、ミキはわざとらしくため息を吐いて大きく肩を揺らした。
「うん。これでよし…っと」
 軽く手櫛で髪を整えられて、きちんと乗せられたベレー帽。
「うん。カッチョイイ!」
「あぁー。なにそれ」
「いいの。ふふっ。うん。素敵だよ。ミキちゃん」
「ありがと」
 ふんわりと微笑むリカに照れくさそうににひひとはにかみ返して、ミキはようやくトラベルバッグの持ち手に手を掛けた。
「早く帰ってくる」
「ゆっくりしてきなよ」
「やだ」
「もぉ」
 わざとらしく膨れたリカの頬。
 ミキはくすっと笑って頬を突付くと、その手でそっと包み込んだ。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん」
 大きくうなずき返したリカにすっと近づくミキの顔。

 助手席の窓の向こう。寒空の下でアイスキャンデーを頬張っているノゾミ、マコト、サユミ、レイナが慌ててポンコツトラックから顔を背けた。

 ガチャ。

 グレーのコートを脇に抱えてようやくポンコツトラックから降りたミキ。
「さむっ…」
 ちくちくと肌を刺す冬の風に慌ててコートを着ると、暖房で暖かった車内がひどく名残惜しい。
 リカはトラベルバッグを渡すと、そのまま助手席に座ってとりあえずドアを閉め、ウィンドウを下げて身を乗り出した。
「みんな! いってらっしゃーいっ!」
 ぶんぶんと手を振ったら、「はーい!」とノゾミ、マコト、サユミ、レイナから帰ってきた大きな返事。
 ミキはそんな4人に目を細めてくすくす笑うと、
「じゃ、行くね」
 よいしょとトラベルバックを肩にかけ、小さく手を振って4人の下へと歩き出した。
「気をつけてねー!」
 そして「はーい!」と帰ってきた5つの返事。

「もぉ。ミキティいちゃいちゃしすぎだってば」
「そーですよぉ」
「もー列車くるっちゃよー。みきねぇ」
「赤くなってるー。フジモトさん、かーわいいー」

「あーもー。うっさい。ほらっ。行くよ」

「はーい」
「はーい」
「はーい」
「はーい」

「ねぇねぇ、マコト。ちゅぅ〜」
「ちゅ〜ぅ」
「こらこらこらこら」
「やーん。ミキティだってさっきしたじゃーん。ねー」
「ねー」
「フジモトさん、耳真っ赤ぁ!」

 なんだかんだと待たされたノゾミにからかわれてひじで突かれているミキ。
 マコトが一緒になってやんやとはやし立て、なんかむっすりとしたレイナの手を引きながらサユミも一緒になってきゃあきゃあと騒いで笑っている。
 そんな後姿を助手席の窓から身を乗り出して笑顔で見送るリカ。
 改札を通って、ホームに上がる前にまた振り向いてみんながぶんぶんとリカに手を振って。
 だからおっきく腕を振って返した。

 ガタンガタン。

 ほどなくしてホームに列車が滑り込んでくる。
 駅のフェンスの向こうから手を振るようにひらひらと見え隠れするベレー帽が一つ二つ。

 ガタンガタン。

 レールの上を軽やかに駆ける弾んだ音がやわらかな空色の中へと駆けていく。
 短い車両は大きな街へと向かっていった。

 ロータリーの中をすずめがちち…とざらっとしたアスファルトを突きながら横切っていく。
 なんなとく見上げた空はよく晴れている。それだけに風は冷たく冴えて、簡単にジャージをすり抜け、中に着ている薄手のウールのニットをすり抜けてひゅうと耳元で笑って肌を刺していく。
 リカはぶるっと体を震わせた。
「さて」
 ぐるぐるとハンドルを回してウィンドウを上げると、運転席に戻ってキーを回した。

 どぅん。どぅるるるる……。

 リカは後ろから軍支給のファー付きのボアライナーのコートを引っ張り出して羽織ると、シートベルトをしてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


    *


 夜の帳は落ちて、冬の星座はきらきらと瞬いて…。
 静かな夜。
 ひっそりと地平線から顔を出した月はそろそろ半分になろうかとしている。

 静かな夕飯。
 静かな食後のひと時。
 それまでだってたいした人数ではないのに、驚くほど静かな兵舎。
 いつもとは少し違うのんびりと穏やかな時間の流れ。
 翌朝のことを気にしなくていい夜。

 消灯時間も近くなって、部屋でベッドで横になって本を読んでいると、カオリはふと、ドアの向こうに気配を感じた。
 休暇中は特別…とカオリの足元辺りで丸まっていたれいにゃも『ん?』と顔を上げる。
 一人と一匹は顔を見合うと、またドアへとカオを戻した。
「…」
 ページをめくろうとしていた手を止めて少し集中する。
 星の瞬く音さえ聞こえそうな夜は、すぐにドアの向こうの様子を伝えてくれた。

 ひたひたひた…。

 …。

 ひたひたひた…。

 …。

 はぁ…。
 ため息が一つ。

「…」

 ドアの前を行ったり着たり。
 普段はスナイパーの習性か自然と抑えられた足音もずいぶんとはっきりと感じる。
 カオリは起き上がると、
「リカ?」
 ドアの向こうに声をかけた。

 …!!!

 ひたっ…。

「いいよ。どーしたの? 入っておいで?」

 …。
 ………ふー。

 …。

「…」

 じーっとドアを見つめるカオリ。
 たった一枚のこげ茶色の板の向こうから伝わってくる戸惑いと緊張。
「りか?」
 もう一度やさしく呼びかけてみる。

 …。

 暖房をつけていない冴えた部屋の空気がすうっと動いた。

 キィ…。

 ドアノブがゆっくりと回り、

 ガチャ。

 ドアが開いた。

「カオたん…」
 オオカミさんのぬいぐるみをぎゅうっと両腕で抱きしめ、不安と恥ずかしさにひよこみたいに口を尖らせてハの字眉毛で上目遣いにじっと見つめるリカ。
 く…くるしぃ…。
 しっかりと胸に抱きしめられて苦笑いのオオカミさん。ちょっと赤くなってるのは…たぶんの気のせい?
 カオリはじぃっと見つめて立ちすくむリカにふわりと微笑みかけた。
「ほら。りかちゃん。おいで」
 布団を少し捲り上げてぽんぽんと叩く。
 リカはなんか言いたげに口を開きかけては閉じてを3回繰り返すと、こくりとうなずいた。
 ドアを閉め、ぺたぺたぺたとベッドへ行くと、カオリの腕にぴたりと背中くっつけて腰掛けた。
「カオたん…」
 振り向きざま子ネコのようないじらしい目で見上げるリカ。
 カオリはよしよしと頭を撫でると、
「ほら。風邪引いちゃうから、入って」
「うん」
 こっくりとうなずいたリカがベッドに足を乗っけて布団の中にもぐらせると、軍支給のカーキオリーブのジップ・セーターを脱ぎ、そっと布団をかけて肩を抱くように横になった。

 カチン。

 手を伸ばしてベッドサイドの小さな電光ランプの明かりを消す。
 布団の上にいたれいにゃがカオリとリカの間に出来た隙間からもそもそと布団の中にもぐっていく。
 カオリはオオカミさんを抱きしめたままもぞもぞと体をくっつけてくるリカを包むように長い腕で抱きしめると、なにやら強張っている背中をゆっくりゆっくりさすった。
「カオたん…」
「ん?」
「うん…」
 むぎゅとオオカミさんの頭に口元をうずめるリカ。
「なんかね…」
「うん」
「あったかい……」
「うん。そうだね」
 さする手が、今度はあやすようにぽんぽんと背中を叩き始める。
「カオたん…」
「ん?」
「みんな…何してるかなぁ」
「んー。そうだねぇ…」

   『子分のみんなに会ってくるっちゃ!』
    声を弾ませ、目をきらきらさせてぴしっとスーツの襟を正すレイナ。
   『お姉ちゃんのお墓参りに行ってきます』
    ふんわりと微笑んで、でもちょっとさびしそうな目をしたサユミ。

   今頃は西へと向かう夜行列車の中。
   ガタゴトとにぎやかな列車の中で、サユミとレイナはいったんどんな夢を見ているんだろう。

「ふふ。おみやげ、楽しみだね」
 カオリの手がやさしくリカの髪を梳く。
 うれしそうに微笑んでリカはうなずいた。

   『へへっ。ひさしぶりのお母さんのごはん。楽しみっ!』
    ちょっとはにかんで、いつもとかわらないあまえんぼうな笑顔のノゾミ。
   『あたしもお母さんのかぼちゃ料理、すっごいたのしみーーっ!』
    もうすでに食べたかのようにうっとりとしたかと思うと、うきゃーとはしゃいで飛び跳ねるマコト。

   久しぶりのお母さんの手料理。
   たっぷり食べたノゾミははしゃぎ疲れてたぶん今頃夢の中。
   夜行列車に揺られて眠るマコトの夢は、たぶんだいすきなかぼちゃ料理。

「今日のカオたんのごはん、おいしかったよ」
「ふふっ。ちょっと贅沢しちゃったね」
 五穀米のごはん。大根と青菜のみそ汁。
 そして普段はなかなか手が出ない牛と豚のあら引き肉を使った和風煮込みハンバーグ。
 さっぱりとしたしょうゆベースのだしの染みた肉。付け合せのナスにほうれん草、にんじん、じゃがいも。
 みんなが聞いたらさぞ悔しがるだろう。
 しーっ。ナイショね。
 って約束して、ゆったりと過ぎていったちょっとオトナのディナータイム。
 リカの腕の中のオオカミさんも、『ニク…いいなぁ』ってうらやましそうにカオリを見つめている。
 よしよしとオオカミさんの頭を撫でると、よいしょとリカを抱きなおした。
 リカは目を細めて鼻先をオオカミさんの頭にうずめた。

   『はい。リカちゃん』

    ミキはマコトの部屋からとってきたオオカミさんをむぎゅっとリカの胸に押し付けた。

   『ミキちゃん?』
   『ふふ。ミキいないから、リカちゃん一人じゃ寝れないかなぁってね。ま、お守り代わりってとこかな』
    クスクスと笑って、からかうようなやんちゃな瞳にリカが『もぉっ』って膨れる。
   『ミキちゃんこそ、さびしいんじゃないの? なんなら、うさぎ持ってく?』
   『ミキは大丈夫』
   『ホント?』
   『なぁによー。ホントだって』

 オオカミさんにうずめている口が不満げに尖る。
 なによぉ。自分だってさびしいくせに。もたもたしちゃってさぁ…。
 きゅうっとオオカミさんを抱き締める腕にこもる力。

   『なんかさぁ…。お姉ちゃん達が顔見せろっていうからさぁ』
    そう言って笑った顔はちょっと困ってて、だけどどこかでほっともしているようで…。
   『まぁ、それだけじゃないんだけどね。お墓のこととか、実家のこととかもあるし』
    手紙とかじゃ伝えきれないじゃん…と、ミキのちょっと困ったような笑顔に淡い影が落ちる。
   『行ってきなよ』
    あたしには…もう、ないから。
    言葉にはしなかったけど、ミキが困ったように笑うから、たぶんさびしそうな顔をしてたんだろう。
   『…ごめんね。リカちゃん』
   『なんで謝るの?』
   『ぁ…そうだよね』
   『いっぱい甘えてきなよ』
    そしたら、
   『いいよ。だったら今、リカちゃんに甘えたい』
    そう言って、だっこ…って舌っ足らずな口ぶりでにかっと笑うミキ。

 オオカミさんがちょっと息苦しそうにリカの腕の中で笑っている。
 うずめていた口元をあげて抱きなおすと、じっとカオリを見つめるリカ。
「リカ?」
「…」
 じいっと見つめてくるから、そっと額をこつんと合わせて見つめ返すと、リカから小さなため息が零れた。
「ねぇ、カオたん…」
「ん?」
「ぅん…」
 またわずかに強張ったリカの小さな背中。
 リカはすがるように背中に回した手でぎゅっとスリープシャツを握り締めて、カオリの首筋に顔をうずめた。
 オオカミさんが、ちょっと苦しそう。
 でもどこか心配そうに見上げているようにも見える。カオリは片手でしっかりと抱きしめられたオオカミさんをそっと取り上げると、自分の方に向いていた顔をリカの方に向けて腕の中に戻した。
 そして、背中に回っているリカの腕を取ると、仰向けになってリカの手を包むように握り、頭を上げさせて下に腕を入れると首筋にうずめたままのリカの頭を抱き寄せて腕枕。
 二人の間に挟まれて、それでも少しだけ楽になったのかむぎゅっと押し潰されていたオオカミさんの体にふっくらと丸みが戻った。
 オオカミさんを胸に、カオリの肩口に顔をうずめて目を閉じるリカ。
 指先でくすぐるように髪を梳いてやると、リカの小さな手がカオリのスリープシャツの胸元をきゅっと掴んだ。
 まだわずかに強張っている体。
「りか…」
 やさしい声で囁いて、髪を梳いていた手でゆっくりゆっくりと背中をさする。
「…カオたん」
 うずめていた顔を上げると、そこにはふんわりとしたやわらかな微笑。

     『いってらっしゃい』

    ガタガタと揺れるポンコツトラックの後姿に手を振るカオリ。

     『ただいま』

    リカが戻って食堂のドアを開けると、窓辺に座って読書していたカオリがにっこりと微笑んだ。

    『おかえり』

 スリープシャツを掴む手にさらに力がこもる。
 リカはまた肩口に顔をうずめて目を閉じた。

    星の瞬きが聞こえそうなほどの静かな夕食後のティータイム。
    カオリの部屋でベッドに座って、体を寄せ合ってのんびりと過ぎる冬の夜。
    カオリの膝にはれいにゃ。
    ロウソクの淡い灯。温かい紅茶のやさしい香り。
    しゅんしゅんとだるまストーブの上のやかんが白い息を吐く。

   『…カオたん。よかったの?』
   『ん? 何が?』
   『…んー…。みんな帰ったのに……カオたん…』
    カップの中でゆらゆらと揺れるブラウンの水面を見つめる不安げな視線。それとなくひよこのように尖った唇。
    カップに口をつけたものの、ふとためらってカチャとカップと皿が甲高い音を打ち鳴らす。

    ゆらりゆらりと揺れる水面。
    眉毛をハの字にした小さな笑顔が白いティーカップの中でゆらりと歪んだ。

    しゅん、しゅんと白い湯気を立ててやかんが歌う。
    ストーブの窓から見える橙色の炎が踊っている。

   『りか』
   『ん?』

    カオリはカップをベッドサイドの小机に置くと、どこか泣きそうな目で見上げるリカの肩を抱き寄せた。
   『お留守番、一人じゃ退屈でしょ?』
   『けど…っ…』

 スリープシャツ越しにじんわりと伝わってくるやわらかいぬくもり。
 しなやかな手がやさしくやさしくリカの心を解して、微妙に力が入っていた体からすっと力が抜けていく。
 カオリはさすっていた手を止めると、とん、とん…とゆっくりと背中を叩いて、子守唄を口ずさんだ。

 とん、とん…。

 心臓の鼓動にあわせた緩やかなリズム。
 ちょっとあやふやな歌詞を囁くようなハミングでごまかす。

 帰りたい場所。
 帰る場所。

 奪われて、見失って…。
 どこへ帰ったらいいの?

   『リカ。一緒に寝よっか?』
   『……うぅん。大丈夫』

    いつものリカらしくない返事。
    困ったように眉を下げた笑顔から覗く遠慮とどうしようもないほど燻った不安。

 わからなくて、そこにあるぬくもりがなぜが怖くて……。

 だきしめてほしい。

 心も。
 心を。

 帰りたい場所。
 自分だけの居場所。

 失って、けど、新しい場所に気づく幸運。
 ふと気づく、あたたかさ。

 とん、とん…。

 規則的な穏やかな呼吸。
 しっかりとスリープシャツを掴んだまま、リカもようやく夢の中へ。
 もう片方の手でしっかりと抱きしめるオオカミのぬいぐるみ。

  「バカね。意地張っちゃって」

 そっと髪をなでて、カオリも目を閉じた。


      *


 のどかなのどかな小さな駅の前の小さなロータリー。
 人通りもなく、ちゅんちゅんと穏やかな冬の日差しの中、すずめがちち…と連れ立って歩いている。
 戦争中だというのに呆れるほどのどかなのは、戦争中だから人がいないからなのかなんなのか。
 ジープのエンジン音はそんな穏やかな空気の中ではやたらと騒々しい。

 ロータリーに入って正面に駅。
 その右手を見れば駄菓子屋さんの看板。
 リカはその店の前のベンチで寒空の下アイスキャンデーを銜えて足を組んで座っている姿を見つけると、やれやれと苦笑いして、大きくハンドルを右に切った。

   『もしもし。あ! リカちゃん!』

    それはなんとなくいつもの習性で朝の筋トレとランニングをして食堂に戻った直後の一本の話から。

   『へへ。うん。もう近くの駅まできてるんだ』

 ひらひらとジープに向かって満面の笑みで手を振るミキ。
 制服のセルリアンブルーがなぜだか日差しの中、眩しく感じた。

   『迎えに来て。待ってるから』

「もぉ。まったく…」
 呟いて、でもしょうがないなぁ…と笑うリカ。
 ジープをミキの座るベンチの前辺りに停めると、トラベルバッグをよいしょと肩にかけてトトトトッとミキが走ってきた。
「ただいま!」
 ドアを開けて後部座席にバッグを放り込むなり、ぎゅっとリカに抱きついてほっぺにちゅう。
「ちょっ! ミキちゃん!?」
「なぁに? いいじゃん。したかったんだから」
 イヤなの?
 イヤじゃないですぅ…。
「でもさぁ…」
 びっくりすんじゃん…。
 とかなんとか言って、カオ、赤いよ。
「まぁまぁ。ね? ほらほら」
 まるで小さい子が甘えるような舌っ足らず声で、うりゃと食べかけのアイスキャンデーをリカの口に押し込むと、
「いいじゃん。なんかさ…うん」
 へへへっと照れくさそうに笑って、バタンとドアを閉めた。
 なんとも言えずフクザツな表情のリカの口の中に広がるもっさりなのにあっさりしたミルクの味。

 フロントガラスの向こうに広がっている澄み渡った冬の青い空。まだ白さを残す太陽の光。

 リカは口に押し込まれたアイスキャンデーを齧った。
「でもさぁ、おととい行ったばかりじゃん」
「うん。そうなんだけどね。ってかさぁ、言ったじゃん。早く帰るって」
「言ったけど、そうだけどもっとゆっくりしてくればいいのに…」
「うん…」
「ミキちゃん?」
 それまでのはしゃいだ明るい笑顔がすっと落ち着きと影を含んだ微笑に変わる。
 ミキはシートに乱暴にもたれかかると、ベレーを後部座席に放り投げ、かしこまってきゅっとしまったままのネクタイを緩めた。
 ふぅ…とため息を吐き出し、影の差す笑顔のまま次の言葉を待ってじっと見つめるリカに視線だけ向けた。
「そうしたかったんだけどね」
 スーツの胸ポケットからロリポップを取り出すと、ペリペリとワインレッドにサクランボが描かれた包装紙をはがして銜える。
「なんかさぁ…。かわいかったんだよ。まだちっちゃいの。赤ちゃんなんだ。姪っ子」
「…」
「ミキのこと見て、にこーーって笑うの。ほんっとかわいいの。うん」
 ちっちゃな手をまるで空を掴むようにめいいっぱいミキに向かって伸ばすから、そっと握ったらふんわりとやわらかくてあたたかかった。
「かわいいんだけどさ、なんか…なんて言ったらいいんだろ……うん」
「……」
 なんとなく食べ終えたアイスキャンデーの棒を唇に押し当てたまま、リカはどこか思いつめるように視線を落とした。
 ミキはクスッと笑ってコツンとリカの額を軽くノックした。
「何リカちゃんが暗いカオしてんのよ」
「え…だって…。んー…そんなカオ、してた?」
「してた」
 ま、いいんだけどね。
 そう呟いて、ミキはシートを倒して寝転がった。
「ねぇ、リカちゃん」
「ん?」
「なんかさ、おねぇちゃん、お母さんしてた」
「うん」
「あんまりカッコよくないけど、でも…やさしいダンナさんとかわいい赤ちゃんに囲まれて」
 ここにいて…いいのかな……なんてね。
「…」
「しあわせそうだった」
 ガラスの向こうの真っ青な空を見つめたまま、ミキはそっと手を伸ばすとリカの手を握った。

 コロコロと舌先で飴玉を転がせば、ふらふらと白い棒が揺れてフロントガラスの向こうの青空に向かってタクトを振るように何かを奏でている。
 どこか切なげで、なのにそれとなく穏やかな、そんな冬の日のメロディー。
 覆いかぶさるようにリカは唇を寄せると、重なろうとしたその瞬間それでいいのかためらって、けど、それ以外には思いつかなくて、ゆっくりとやわらかく唇を押し当てた。

「帰ろっか」
「うん」

 のどかなロータリーをぐるっと回って低いエンジンの唸りを上げながらジープが駅から離れていく。
 ちち…と連れ立って歩くすずめの親子。
 人気のないホームで日差しを受けてひっそりと立つ看板。
 その足元に落ちた小さな影がもうそろそろ正午になろうかと伝えようとしていた。

 

(2005/7/18)

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