日曜日

 21インチのブラウン管の向こうでは、国のおエライさんがなにやら熱弁を振るっていた。
 耳を傾けて熱心に聞き入ってる者が誰一人いないお昼近い水曜日の食堂。

『今日、この日を忘れてはならない。私たち国民はこの……』

 ノゾミとマコトは何やらノートに落書きしてはケタケタ笑いころげている。
 窓辺にはかなりマニアックにひねくれた恋愛小説の中へと飛んでいったカオリ。
 ぼんやりとリズムを取りながらヘッドホンステレオで何やら聴いているミキ。

『この地で、何の罪もない多くの方々の、そのかけがえのない命と、そして……』

 日課の基礎訓練を終えて食堂に入ったレイナとサユミは、のどかな食堂の中で一人延々と熱く語るブラウン管の向こうのエライ人に眉をひそめた。
「あれ? あの…イシカーさんは?」
 一人だけ姿が見当たらない。
 レイナの素朴の疑問にぴたりと馬鹿笑いをやめたノゾミとマコト。
「出掛けてるよ」
 答えたのはミキだった。
「今日は…赤い日曜日だからね」
「あぁ…」
 レイナは妙に納得した。そういえば、リカ宛に軍本部から封書が届いていたらしいことを思い出した。
「そっか…。それで正装してたんだ」
 ぽつりと呟いたサユミの脳裏に浮かんだセルリアンブルーのベレーにダークブルーのスーツ姿のリカの後姿。
「じゃあ、行ってるんですか?」
 サユミがテレビを指差すと、活字の世界から帰ってきたカオリが顔を上げた。
「行ってないよ」
「でも、命令じゃないんですか?」
「本当はね」
「だったら…」
「強制ではないから」
 今度はレイナが首を傾げる。
「強制じゃない命令なんてあるんですか?」
 軍なんてものは、上の言葉は神の言葉である。
「軍じゃなくて国だからね。この式典の主催は」
 カオリはしおりを挟むとパタンと本を閉じてテレビに顔を向けた。
 ブラウン管の奥で切々と訴えかけるこの国で一番エライ人。
「だから、一人の国民の意志として、断ることができる…と」
「はぁ…」
 わかったようなわからないようなレイナとサユミ。

『今ここに、改めて誓おう。手を取り合い、今こそ……』

 たしか、去年もこんなんだったよなぁ…と、ノゾミは思った。

 緑も芝もまばらな疲れた公園の広場。
 群集を前に演台で拳を振るうこの男の言うことは、結局要するにこういうこと。

 ― 立て、国民。あの屈辱を忘れてはならない。正義という名の下に報復を。死という鉄槌を。

 言葉を変え、口調を変え、全く見事なもんだとミキは思った。

 なんとなくテーブルについて、レイナとサユミもブラウン管を見つめる。
 カオリはポンと手を叩いた。
「そうそう。軍関係者は各自演説の感想文提出ね」
「はぁ!?」
 1秒もかからない見事なミキのリアクション。
「えええっ!」
「うそーっ!」
 ノゾミとマコトの絶叫。
「えーーーっ!」
「なんでーっ!」
 レイナとサユミの非難の声。
 カオリは見事なその反応に満足そうに微笑んだ。
「なーんてね」

 ってこれ、冗談?

「もぉーっ! カオリぃ〜っ!」
「びっくりさせないでくださいよぉ!」
「イーダさん! 今の質悪いですよぉ!」
「あぁー…よかったぁ…」
「びっくりしたぁ! そんなの書けないよぉ」

 反応もまた、それぞれ。

「ごめんね。ちょっと退屈だったからね。でも、一応付けとかないと後々うるさいから、消さないようにね」
 「は〜い」と5つのふてくされた返事が返ってくる。
 カオリは苦笑いしてまた活字の世界へと飛んでいった。

「でも、じゃあ、イシカーさん…そんなカッコしてどこ行ったのかな?」
 首を傾げるサユミに答えたのはノゾミだった。
「あそこだよ」
 サユミの中にその場所がぽんと浮かんだ。
「あ…」
「…あぁ…」
 そうだったんだ…とレイナもどう言っていいのか、あいまいに言葉が濁る。
 ミキはよく晴れている窓の向こうへと、なんとなく顔を向けた。

     *

 広がる海の青は空の青。
 太陽の光できらきらと輝いて穏やかに凪いでいる。
 高さにして1メートル弱。横に1メートル半ほどのよく磨かれた白い花崗岩は、真昼の太陽の光を受けて鮮やかな空の青と穏やかな海の青によく映えていた。

 『 ----. Apr.28 赤い火の中に消えた尊い魂よ、どうか安らかに 』

 港町の名前と日付、そして召された魂を慰める短い文が刻まれた墓石の前には、立てられた墓石と同じ横幅の花崗岩が長めの芝の中に埋もれるようにして収まっている。
 軍の正装をしたリカはその前に腰を下ろし、長いこと祈りを捧げていた。

 丘を駆け上がる南風に髪が舞い、芝がさらさらと歌う。
 かもめが鳴き、静かな墓地に声は遠く響き渡る。

 足音がして、リカは祈りをやめて立ち上がった。
「ナカザーさん…」
「よっ」
 ダークブルーのスーツ、セルリアンブルーのベレー。同じように正装したユウコは軽く片手を上げた。
 リカが敬礼すると、ユウコは困ったように笑った。
「ええって。今日はそんな日ちゃうやろ」
「あ…」
 リカも眉を下げて困ったように笑う。
「習慣って…イヤですね」
「ほんまやな」
 ポンとリカの頭に手を置くと、ユウコは墓石の前にひざまずいた。
 1歩下がってリカは黙ってその後姿を見つめる。

 凪の音が聞こえるような気がするほど静かな霊園。
 またかもめが鳴いて、夏の香りがするさわやかな風が通り過ぎる。

 5分ほどの祈りを待つ間、リカはひざまずき頭を垂れるユウコの背中をただ見つめていた。

  『…』
   以前の面影はない。
   美しい庭園も、真っ白い十字架も。
   そこで幸せと永遠を誓う二人の姿も、それを祝福する人たちの姿も…。
  『……』
   そこが正しい場所なのか、リカにはわからなかった。
   何もかもが崩れ落ち、地に伏して、焦げた臭いを発している。
   自分は確かにあの時ここにいた。
   火の粉で黒くすすけた淡いピンクのスーツもあの時はまだ新品同様だった。
   ぐるぐると帰ってくるキオク。目の前の現実。
   空腹と驚きと悲しみに疲れ切った体と心は、それをどう受け止めたらいいのか分からなかった。
  『ひどい…』
   だだっ広い空間に黒いとグレーの瓦礫の山。
   ごろりと転がっている焦げた人の塊らしい黒い物体。
   辺りを満たす焦げた臭いと腐臭。

  『……ひどいな…』
   ふと声の方を見ると、迷彩服に金髪の弾けた女性の軍人。
   じっと荒野を見つめるその顔は、落胆というよりも湧かない実感に戸惑っているように見えた。

 ユウコは立ち上がると、なんとなく困ったように笑った。
「なんて言ったらいいのか…よぅわからんもんやね」
「そうですね…」
「あんたは?」
「同じですよ。毎年なんて言っていいのか…」
「せやろな…。ウチがわからんのに…な」
 そして顔を見合って呆れたように笑う二人。
「嫌やな、こういうとき軍人ってゆーのは」
「ホントですね」

 仇を討つ気概があるのなら、こんな気持にもならないだろう。
 復讐なんてものがいかに馬鹿らしいかを知っているユウコ。
 復讐というものがいかに虚しいことかを知ったリカ。
 それを知らしめさせた戦場。

 それでも、ユウコもリカも自分の考えが稀有な方だとわかっている。

「何が望みなんやろぅな…」
「さぁ…。ナカザーさんにわからないことが私にわかるわけないじゃないですか」
「せやな。ウチもわからん。上の考えてることは」
「…」
「もう…4年になるんやな」
「…はい」

 戦争自体が始まって、すでに6年という月日。
 繰り返される小競り合い。

「早いな…」
「早いですね…」

 ここから1時間ほど西へ行けば、そこでは式典の真っ最中。
 ここのところ戦績がよかったからさぞかし煽っていることだろう。
 それが良いのか、悪いのか。
 疲れきってるすべてにとって、まともな判断がつけば世話もないということ。

 欲をかいても、何も得られないだろうに…。

「今年も勝手なこと言ってるんですかね」
「そやろなぁ。乙女もさくらもようがんばっとるから」
「…」
 ユウコは不満げに口を結ぶリカの肩を抱き寄せるとベレーの上からかき混ぜるように頭を撫でた。
「しょーがあらへんよ。気持を考えれば、報復を望むっちゅうのは間違いやけど間違いやない。ウチかてそう思った」
「…」
 リカもそれは否定しない。軍に入った動機は報復ではなかったが、訓練をうけているうちに気持が膨れ上がった自分を知っている。
「せやけど、がんばらへんかったら、この国無くなってまうしな」

 報復を望まない者にとって、そこにいる理由は守りたい…ただそれだけ。
 何を守りたいかは人それぞれだとしても。

「ほんとやったら、うちらここにおったらあかんのやし」
「…」

 空襲被災者遺族のナカザーユウコ。
 空襲被災者であり、遺族であるイシカーリカ。

 今頃は誰かが壇上に立って、あの日のことを語り、そして故人を思い返しているのだろう。

「ナカザーさん」
「ん?」
「いい天気ですね」
 きらきら輝く海をまっすぐに見つめるリカ。
 ユウコは空を仰いだ。
「…そうやね」

 あの日の空も真っ青だった。

   ユウコは門であったろうひしゃげた鉄の塊の前で力なく座るリカに声を掛けた。
   肩を揺らすと、ゆっくりと顔が自分の方を向き、虚ろに開いた目がユウコを映す。
  『大丈夫か?』
   リカは首を横に振った。
   まいったなぁとばかりにばりばりと頭を掻くユウコ。
  『…そうやね。すまんな』
  『いえ…。ごめんなさい…』
  『何で謝るん?』
  『だって…』
  『こんなん見て、大丈夫なヤツなんかあらへんて。少なくともこの国に生きとったらな』

   幸せを誓う場所は空からやってきた鈍い色をした鉄の塊に踏みにじられた。
   無邪気にカラダを広げていく炎に包まれて、神聖なはずの場所は黒い消し炭の山。

  『あんたは…なんで?』
  『……結婚式…』
   ところどころに穴。真っ黒に汚れた淡いピンクが痛々しい。
   きっとその日に初めて袖を通したんだろうと、目を細めたユウコの眉間にしわが寄る。
  『…従姉の…お姉さんの…』
   搾り出すよう小さくつぶやいて、ふらふらとリカは立ち上がった。
  『…あの…軍人さんは…?』
  『…妹がな、ここで式を挙げる予定やってん。下見に行くって…』
  『…そうですか…』
  『そのお姉さんのこと…あの子、きっと見とったやろうな…』
  『……はい…』

   はつらつとした陽射しの下、真っ黒な残骸はよく映えた。
   空に向かってひしめいていた建物が全部取っ払われて、広々とした空は満開の笑顔。

   ぎゅっとリカは拳を握り締めた。
   ユウコが抱き寄せると、リカは肩を震わせて泣いた。
   必死に声を押し殺して、だけど、すがるようにユウコの服を掴んで…。
   空を仰いだユウコの頬を滑る涙。
   青い瞳はただただ空をにらんでいた。

 雲一つない眩しい青。
 潮の香りに夏の気配。

 ユウコは墓石に目を落とした。
「結局、わからんかったしな…」
「そうですね…。でも、みんな一緒だから…」
「案外、寂しないのかもな。あの子もダンナと一緒やし」

 遠距離恋愛を実らせて、婚約者の住む街での挙式を待つばかりだったユウコの妹。
 輝きに溢れる空の下、薄暗い日常を吹き飛ばすくらいの情熱で愛を誓ったリカの従姉。

「あんたは?」
「ナカザーさんは?」

 かもめが鳴いた。

「寂しくないですよ」
「うん…。ウチかて寂しないよ」

 さらっと風が芝を揺らす。

「後悔はしてないです。私。…みんなにも会えたから」
「……」
「それに、生きてますから」
「…せやな」

  『………あんた……?』
   こくりとうなずくリカ。
  『そか…。行く当ては?』
  『…わからない…。……帰る家はあるけど…』

   いつまでもここにいるわけにも行かない。
   それどころか、これからどうやって生きていくのか…。

  『一緒においで』
  『え?』
  『避難した場所に戻るって行っても、あんたもようわかっとらんのやろ?』
  『……はい』
  『とりあえず軍の避難所におったらえぇ。帰る家があんのやったら送るし』
  『いいんですか?』
  『良いも何も、もともとうちらは被災者の救援できたんやから。遠慮せんとぉ』
   ユウコは明るい笑顔でバンと背中を叩いた。
   じんと響いた痛みと微笑にリカは強さを感じた。
  『…お願いします!』
   ペコリと頭を下げると、ポスッと置かれたユウコの手がくしゃくしゃと髪をかき回す。
   ぶっきらぼうに、だけどやさしく。

「あれから、また会うとは思わんかったけどな」
 墓石を見ているようで、たぶんその向こうを見ているであろうユウコの瞳。
 リカは微笑を残したままうつむいて、芝に埋まる白い花崗岩に目を落とした。
「なんや…親御さんに悪いような気ぃして…」
「そんなことないですよ。ナカザーさんがいたから、私、受けたんですよ」
「なんやの? そんなかわいーことゆったって、なんもでぇへんよ」
「何言ってるんですかー。ホントにそう思ってるんですよぉ」
「またまたぁ。あんたなっちに憧れてたって言うとったやん」
「それもホントのことですから。…でも、あの時…ナカザーさんに会わなかったら、私、そんなこと考えなかった…」
「…」

 軍に属するということは、いわば国のために働くということ。
 死と隣り合わせとはいえ、生活が保障され一人でも生きていける…ということ。

 港町より30キロほどの町にある自宅へと送った時、悩んだ挙句にユウコが渡した志願書は、1週間後しっかりと書き込まれてユウコの元に返ってくる。
 決意に満ちた目と緊張で震えた手、強張った顔。
 一生忘れないだろうと思った。

「毎年この話してますよね。そう言えば」
「…そうやね。言われてみれば…な」
 穏やかなまなざしできらきら眩しい海を見るリカ。
 ゆっくりと息を吐いて視線を落とすユウコ。
 リカがトンと肩をぶつけると、「こら」とユウコもやり返し、さらにヘッドロック。
「痛いですって! ナカザーさん! ギブキブ!」
「あかん。イシカーのくせに癖にナマイキや」
「なんですかぁ! それぇ」
 ぱさりとベレーが落ちて、ようやくユウコは腕を緩めた。
「かなしーなぁ。ウチはそんな子に育てつもりはないんやけどなぁ」
「もう。何言ってるんですかぁ。こんなに素直に育ってるじゃないですか」
 リカはベレーを拾うと、少し乱れた髪を手で直して被り直す。
 ユウコがじとっとした目を向けた。
「なんや、もう一回締めてもらいたいんか?」
「はい。すいません…」

 眩しい光を浴びて、名もわからない多くの人たちの永久の眠りを守る白い花崗岩。
 真っ青な海に映える白い姿は、どんなに生き生きとした光を受けても静かにそこで佇んでいる。

「午後になったら混むでしょうね」
「のんびりできるのも今だけやな」

 穏やかな風、緩やかな時の流れる静かな国営霊園。

 リカは時計に目をやった。
 針は12時を4分の3ほど過ぎたところを記していた。
「そろそろ式典が終わる頃ですね」
「もうそんなか。早いなぁ」
「はい…」
「じゃあ、そろそろやな…」
「そうですね」
 そして、ユウコとリカは再び跪いて、祈りを捧げる。

 また来るから。
 来年も、その次も、それからも…。

 かもめの戯れる声。
 耳元をくすぐるやわらかい風の音。
 一つの街を真っ赤に染め、黒い荒地の広がったあの日も穏やかだった。
 良く晴れて、緑が鮮やかな眩しい日曜日。
 不意に現れたいくつもの黒い影。降り注ぐ鉄の雨。
 ごく普通だった日曜日は真っ赤に染め上げられ、悲しみと憎しみに彩られた。

  緩和された入隊基準。
  膨れ上がった予算。
  報復に傾いた世論。
  熱狂する声。

 戦争は、この日を境に一気に加速へと導かれていく。

 血で血を洗っても、キレイになるはずなんてないのに。
 憎しみは赤い血を限りなく澄んだ水のように見せるんだと、リカは思った。
 結局人は右の頬を張られたら相手の右を張り倒すもんなんだと、ユウコはうんざりした。

 抱える矛盾。
 振り返ることは意味を持たない。
 いつかこの悲しみが空に帰すことができると感じる日までは…。

 狙われたあの街は、もしかしたら…ただ運が悪かっただけだとしたら、神様はホントにいじわるだ。

 ほんのわずかな間だったのに、目を開けるとやけに光がまぶしく感じた。
「この次はケイ坊か…」
「早いですね……」
「もう…1年になるんやな」
 そう言えば、あの日も確か晴れていたっけ…。

 うれしいときも悲しいときも、見上げればいつも青空。

 立ち上がると、背中に南風を受けながらユウコとリカは霊園の事務所へと歩き出した。
「ナカザーさん、これからどうするんですか?」
「ん? ウチはとりあえず呑み行く」
「イナバさんとですか?」
「よぉわかっとるやん」
「って、去年もだったじゃないですか」
「ええやん。そんな細かいこと。まっ、代わりに出てもらってるから、ウチのおごりやけどね」
 ユウコはちょっと決まり悪そうに笑った。
「で、あんたは?」
「私はまっすぐ帰ります。明後日が出撃予定ですし」
「あ…。そう言えばせやったな」
「はい」
「がんばりや。みんなにも言っとてな」
「はい!」
 リカが力強くうなずくと、ユウコはニッと笑って背中を叩いた。
 バンと炸裂したこれまた小気味いい音が静かな墓地に響いて、一瞬息が詰まったリカが体を丸めてむせかえる。
 リカの背中をさするユウコの腹を抱えて笑う声が今度は木霊した。

 小道を下って、やがて綺麗に並んだ墓石の姿がはたと消えると事務所の姿が見えてくる。
 下りきった小道の先にはちょっとした並木通り。
「ナカザーさん、今日は車ですか?」
「いや。ウチ、毎年この日は電車やで」
「あっ。そーなんですかぁ」
 意外そうな顔をしたリカ。
「なんかな、そんな気分やねん。あんたは?」
「私は左平次……じゃなくって、バイクです」
「は? 何なん? それ」
「え…それってバイク…ですけど」
「や、ちゃうくて、そのサヘイジって」
「あ、その、ミキちゃんが…」
「フジモトが?」
「はい。別に意味はないらしいんですけど、バイク見て、あっ、左平次だ…って」
「はぁ…。なんや…意外に変わったセンスしとるんやね。あの子…」
「はぁ…」
 同じように相槌を打ったが、何気にリカも気に入ってたりする。
「ちなみにカオタンはジョセフって呼んでます」
「はぁ〜。それはそれでなんかカオリらしいな…」
 すると、ユウコはくっくっくっと笑い出した。
「そういや、あの子…」
「どーしたんですか?」
「イシカー、カオリに伝言頼むわ」
「はぁ…」
「サンドラ元気かってゆーとって。まだ絆創膏貼ってんのって」
「あぁ…。はい…」
 不思議そうに首を傾げるリカ。

 並木の枝が淡い影を作ってざわざわと風に揺れると、心地いい風が二人を包む。
 小鳥がどこかでチチチ…と鳴いている。

 事務所の扉が見えてくる。
「そういえば、あんた…バイクで来たって言うとったよな」
「はい」
「そのカッコで来たん?」
「まさかぁ。ちゃんと迷彩で来ましたよ。最初は車でって思ったんですけど、気が変わったんで着替え直して持って来ました」
「ふ〜ん。また何で?」
 リカはちらりとユウコを見ると、すぐに視線を前に戻した。
「だって、考えずに済むじゃないですか」
「…」
「風を受けてたら、余計なこと考えないで…運転に集中できるかなぁって思って」
 そう言うと、リカはふふっと笑って、
「私、着替えてきますから待っててくださいよ、ナカザーさん! ついでにバイクとって来ます!」
 と、事務所に向かって走り出した。
「やなこったい!」
「えー! ひどーい!」
「10分たっても門まで来んかったら先帰るからなぁ」
「はーーーーい!」
 全速力で走るリカの後姿に、ふっと軽い笑みを零すとユウコはゆっくりとした足取りで門に向かっていった。

 程なくして……。

 ヴン…!
 ユウコの前に止まった軍用の250ccのオフロードタイプのバイク。その名も左平次。
「惜しいなぁ。あと1分でふつーに帰れるとこやったのに」
「えーー! そんなこと言わないでくださいよぉ」
 リカはエンジンを止めると、迷彩柄のフルフェイスのヘルメットを脱いでぐっとユウコの腕を掴んだ。
「ナカザーさんとタンデムするの楽しみにしてたんですよぉ」
「タンデムって、あんた…このカッコでバイク乗せる気やったんかい?!」
 スーツは見事までのタイトスカート。
「だって電車で…って言ってたから、駅まで送らせてもらおうかと…」
 なんとなーくうるうるし始めた瞳が上目遣いにをじっとユウコ見つめる。これ以上は落ちないでしょうというところまで下がった眉。
「あんた……それ反則やで」
「……はーい」
 けれどまだ拗ねて膨らむリカの頬。
 ユウコはばりばりと頭をかくと、ぶっきらぼうに言った。
「ったく、しゃーないなぁ。後ろに乗ってやるかな」
  そしてぐりぐりとリカの頭をかき回す。
 ニッと笑って見せたら、すぐにリカから返ってきた笑顔。
「じゃあ、送らせていただきます!」
「っしゃ。飛ばせよ。ちんたら走ったらぶっ飛ばすで」
「はいっ! イシカーリカ、命を掛けて走ります」
 びしっと敬礼。
 ユウコはバシッと頭をはたいた。

  ヴン!
 トルルルルルルルルル……。

 エンジンが再び唸り始める。
「ナカザーさん」
 リカがヘルメットを差し出すと、
「あんたが被っとき。ほれ、リュック貸しぃ」
 ヘルメットを押し返して、リカの背中のリュックに手を掛けた。
「あ、すいません」
「いや、こんなん背負われてたらウチ座れへんし」
「あ…。そうですよね…」
 リュックを背中から下ろして手渡すと、ユウコがそれを背中に背負ってリカの後ろに座った。
「すっごいカッコやな…。ウチ…」
 タイトスカートで目一杯足を開くって言うのは、若いお嬢さんでなくともふつーはしたくはない。
 とりあえず笑ってみたせいか、リカの表情がなんとも言えず情けなくなる。
「大丈夫ですよ。ほら、この辺家とかないですから」
「…そやな。駅の周辺やたら見晴らしえーしな」
 どこか諦めたのか淡々しているユウコ。リカの腰に腕を回すと、
「よっしゃ。行こか!」
「はい! いくぜぇっ!」
 リカはライトをつけ、アクセルをひねってクラッチレバーを軽く握る。

 ヴゥン!

 気を吐くように唸りを上げ、軽くけりだしてステップに足を乗せると左平次が霊園の門を潜り抜ける。チェンジペダルを蹴ってギアを上げていくと、その姿はあっという間に田園風景の中に消えていった。

     *

 ベースキャンプにバイクのエンジン音が響いたのは、もうだいぶ日も傾いた頃だった。
 自室のベッドでぼんやりと天井を眺めていたミキは、ヘッドホンステレオのリモコンを操作して音楽を止めると、ゆっくりと起き上がった。

 階段を下りていくとちょうど食堂のドアの前で戻ってきたリカと鉢合わせた。
「おかえり」
「ただいま」
 ドアを開けて中に入ったリカがきょろきょろと食堂を見回す。
「あれ? カオリンは?」
「ん? 台所じゃない?」
 ミキも食堂内を見回す。
 ノゾミは「おかえりー」と一声掛けると、
「カオリー! リカちゃんが呼んでるー!」
 と奥の方に向かって叫んだ。
「あー。おかえりー」
 包丁を片手に迷彩服に白いエプロン姿のカオリが炊事場から出てくる。
「ユウちゃん元気だった?」
「うん。みんなにがんばれって伝えとけって」
「うん。そっか。わかった」
 にこりと微笑むカオリにリカはうなずき返す。
「あと、カオリンに伝言預かってるんだけど…」
「伝言?」
「…うん。サンドラ元気かって、絆創膏まだ貼ってんのか…って…」
「…」
 さっきまでの微笑がふーっとカオリから消えていく。
 すーっとリカの顔色が引き、1歩下がってミキの後ろにそおっと隠れるようにして肩を抱きしめる。
 ただならぬ気配にミキもじりっと後ろに下がってドアノブに手を掛けた。
「こらー! イシカー!」
 くわっと包丁を振り上げるカオリ。
「なんでそれ知ってんのよ!」
 ダーッと走り出すカオリにマコトがびくっと体を揺るわせ、くわっと目を見開いて包丁を振り回すカオリの顔にノゾミが爆笑する。
「なんにも知らないよぉ! なんであたしに怒るのぉ!」
「あぁっ! 逃げよっ! ほら!」
 慌しく食堂を飛び出して階段を駆け上がるリカとミキを、ちょうど食堂に入ろうとしていたレイナとサユミが不思議そうに見送る。
「なん? 今の…」
「さぁ…?」
 サユミが首をかしげたところで、

 バンッ!

「うわぁっ!」
「きゃあっ!」

 包丁を片手に血相変えてすごい形相で飛びだしてきたカオリ。
 思わず恐怖に抱き合うレイナとサユミ。
「ちっ…。ったく、ユウちゃんってばぁ…」
 そして何事もなかったように再び閉まる食堂のドア。

 基地内移動用の原付。
 つい交信をして山済みになった木箱へとまっしぐら。
 奇跡かな掠り傷程度のカオリと箱の角で少しだけフロントがへこんだ原付。
 ぺたんと絆創膏を貼って、ごめんね、ありがとう…。
  まだ、入隊したての頃のお話。

「はぁ…」
「…ほっ…」
 ずるずると座り込んだレイナとサユミの耳に、食堂のドアの向こうで馬鹿笑いが止まらないノゾミの声が聞こえていた。

 リカはそのまま階段を駆け上がると、自分の部屋へ戻った。
 リュックを下ろすとそのままベッドに飛び込む。
 パタンとドアを閉めると、ミキはベッドに腰掛けた。
「お疲れ様」
 そっと手を伸ばして風に遊ばれていた髪をミキがなでると、
「うん…」
 目を閉じて、はぁ…っと吐き出した息と一緒にうつぶせている背中が大きく揺れた。
 窓の向こうはもう夕暮れの黄金色の輝き。
 ミキは包み込むようにリカの体の上にかぶさって抱きしめた。
「…ミキちゃん?」
「ん?」
 リカの耳元をやわらかい吐息が掠める。けだるい体にじっくりと広がるミキのあたたかさ。
「…なんでもない…」
 そして、ゆっくりと目を開けてふわりと微笑んだ。
 ミキは体を起こすと、リカをコロンと転がして仰向けにすると少しだけ距離を縮めた。
「キスしていい?」
 やんわりとリカの頬を包むミキの手。見つめる瞳に少しだけ緊張の色。
 頬を包む手の上にリカは自分の手を重ねた。
「なんで断るの?」
「なんとなく」
「へんなの」
 リカはくすりと笑うと、少しだけ体を起こした。
 するりと頬から手が離れて、その代わりしっかりとリカの手の中に包まれたミキの手。
 風で乾いた唇が掠めるようにミキの唇に触れた。
「ありがと」
 パタンと体をまたベッドに沈めて少しだけ照れくさそうに微笑むリカ。
 きょとんとしていたミキはふっと目を細めると、薄く開いたリカの唇に自分の唇を寄せた。

 数えて20ほどの時間。
 じっくりとぬくもりの中に溶け込んでいくような感覚。

 重なった唇はやさしくて、少しだけ胸が痛かった。

 そのまま強くしっかりとリカを抱きしめて、ミキはぼんやりと呟いた。
「…おなかすいたね」
「ね…」
 そしてくすくす笑って、やがて静かになって…。
 カオリのフランパンの音が響くまで、二人はそのまま黄金色の光に包まれて深い眠りの中へと落ちていった。


                       ■                    ■


 若い木々の緑が鮮やかに萌えて、短い芝がようやくなじんだようなまだ生まれたてみたいな公園。
 のんびりと本を読んだり、散歩をしたり。
 遠くでは騒がしく楽器をかき鳴らすパンクバンドのがなり声がいっちょ前に平和を歌っている。
 ミニチュアダックスがはしゃいで、ハトが驚いて空へと逃げて行く。
 のんびりとした休日の風景を眺めながら、リカとミキは手を繋いで歩いていた。

 ゆっくりと大きな雲が風に泳いで太陽を隠せば、すうっと通り過ぎる風が心地いい。
 夏はもうそこに来ていて、半袖でも少し汗ばむ。
 ビール飲みたいねってミキが笑って、リカはしょうがないなと笑って帰ったらねと答えた。

 広い公園の片隅。
 イチョウの木の下にひっそりと白い花崗岩の真新しい石碑。

  繰り返さない。繰り返すまい。
    はかなく消えたあなた方の霊魂に誓って
                               』

 刻まれた文字の一つをそっと指でなぞると、リカは黙祷を捧げた。
 ミキもそれに倣って黙祷する。

 花束が絶えることない白い石碑。
 笑い声と穏やかな時の流れ。
 かつて教会であり、繁華街の一角であった場所には緑が揺れている。

 ここで赤い炎の中に消えていった人たちは今、安らかなんだろうか。

 ミキは目を開けると、まだ黙祷を捧げているリカの横顔を見つめた。
 繋いでいる手に力がこもる。
 祈りを捧げる横顔は、胸に何かがちくりと刺さってやるせないほど美しかった。

 ちちち…と小鳥が鳴いて枝から飛び立つ。
 1羽、2羽、3羽…。
 リカは目を開けると、輝きの中に消えていった小鳥たちを目で追った。
「…いい天気だね」
「うん」
 風がイチョウの枝を揺らして木陰がざわめくと、きらきらと太陽の光がリカとミキに降り注ぐ。
 ミキは眩しさに目を細めた。
「こんなになるんだね…」
「うん…」

 木陰の下にぽつんと白い石碑。
 にぎやかな公園の中でたった一つのゆるぎない静寂。

 リカは繋いだ手を離すと、指を絡めるように繋ぎなおして微笑みかけた。
「帰って、ビール飲も!」
「うん! じゃあ、買い物して帰ろうよ」
 声を弾ませて歩き出す。
「やっきにっく! やっきにっく!」
 歌いだすミキ。
 スキップするかの様にはしゃぐミキにつられてリカも歌いだす。
「やっきにっく! やっきにっく!」
 微妙にハモる楽しげな歌声は青い青い空の中へ。

 心が弾む日曜日の午後のひと時。
 まだ気温が上がりそうな気配を残して、太陽はのんびりと空の中に浮かんでいた。

 

(2004/5/5)

 

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