明日

 ダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダッ!

 カチン。

 あぁ?

 カチン、カチン。

 ちっ…。

 わずかに身をかがめて塹壕に身を隠すと、手早く銃のマガジンを取り替えて一度辺りを見回す。
 後ろにはリカとカオリ。左手にはサユミ。そしてその少し離れたところにマコト。一つ前の塹壕にはレイナとノゾミ。

 再び銃を構えて少し頭を出したそのとき、

 …!

 弾丸が横を突き抜けていく軌跡を感じた。

 一つ…。
 二つ…。

 三つ。

 わずかなわずかな、ほんの一瞬の軌跡。

 ドサッ。

 足元を振るわせる振動を引き連れた砲弾とけたたましい銃声の向こうに微かに何かが倒れた音。

 “ リカーーーーッ! ”

 えっ…?

 振り向いて、目を疑う。
 カオリの腕の中でぐったりとしているリカ。
 胸に一つ。右肩に一つ。腹に一つ。
 弾痕から流れ出る血がゆっくりとリカのサバイバルジャケットを黒く染めていく。

 気がついたら塹壕を飛び出していた。
 周りでドカンドカン砲弾が飛び交ってようがヒュンヒュン弾丸が雨霰のように降ってようがどうでもいい。

 撃ちたきゃ撃て! こっちはそれどころじゃねぇんだよっ!

 リカちゃん…。

 肩を揺さぶってみても目を開けることはない。
 口元に耳を近づけても呼吸をしているのかわからなかった。
 うっすら開いたままの唇が微かに動いて耳たぶを弱弱しく掠めて、ミキは顔を上げた。

 ミキちゃん。

 リカ…。

 言った。確かに今…ミキのこと、呼んだよね?
 なのに…ねぇ、いっちゃうの? ねぇ? ねぇっ! リカちゃんっ!

 心臓は、もう止まっていた。

「…!」

 目の前は、真っ暗だった。
 ただひたすら静かで、どこか肌寒くて…。

 ぽたり。

 何かが頬を滑り落ちた。

 一つ。
 また一つ。

 どこかやさしくて、なぜだかひどく切なくて…。
 呼ばれているような気がして、深い深い眠りの底からゆっくりと浮き上がって目を開いた。

 …ミキちゃん?

 うなだれるように頭を垂れて上に覆いかぶさっているミキの表情はカーテンを閉め切った部屋の中ではわからなかったが、それでも次から次から降ってくるやさしい雨は他でもないミキのもの。

 ぽたり。
 ぽたり。

 また一つ、二つ。

 頬に落ちてはすうっと滑り落ちていく雫。

 泣いてるの?

 口を開きかけて、ふと、リカは言葉にするのをやめた。
 パジャマのボタンを一つ一つ外し始めるミキの細い指。

 ぽたり。
 ぽたり。

 相変わらず雫は頬に落ちては流れていく。

 すべてのボタンを外すと、ミキはリカのパジャマを開いてシャツを引き上げた。
 すっかり冷えた部屋の空気に晒された肌が微かに震えた。

 ぽたり。

 胸に落ちた雫。

 あっという間に冬の冴えた空気に熱を奪われた肌に、微かに震えるミキの指先が触れた。
 …。
 リカの体が小さく震えた。
 そっと壊れそうなものに触れるように静かに乗せられたミキの手のひらが確かめるようにリカの体を辿っていく。
 腹。
 右肩。
 そして、胸。
 手は心臓の上で止まった。
 穏やかな鼓動がミキの手のひらをノックする。
 安堵感の混じったため息を吐くと、ミキは心臓の真上に口付けを落とした。
 …。
 そっか…。
 心の中で呟いて、リカが包むように頬に手を添えたら、びくっと震えた。
「…リカちゃん…?」
 震える声。
 手を濡らす涙。
「ミキちゃん」
 そっと囁くように名前を呼んで、頬に触れていた手を髪を梳くように流しながら、しっかりと両腕で頭を抱きしめて胸に抱き寄せた。
「…」
 頬に感じるリカのぬくもり。そして、鼓動。
 ぎゅうっと痛いくらいに強くリカの傷一つない美しい華奢な体を抱きしめるミキ。

 存在を確かめるように。
 二度と離さないように。
 二度と離れないように。
 強く。
 強く…。

 シャツ越しにドクドクとまだ落ち着きを取り戻せないミキの鼓動を感じて、ゆっくりとやさしく、やさしく、髪を梳くよう頭をなで続けるリカ。

 大丈夫。ミキちゃん。
 ここにいるよ。

 トク…トク…。

 落ち着いておんなじリズムを刻み続ける心臓の音。
 ふと、ちょっとしゃくりあげていたのに気づいて、ミキはむぎゅっと胸に顔をうずめると、なんか急に恥ずかしくなって小さく笑った。
「ミキちゃん?」
 不思議に思ったリカの声に帰ってきたのは…。

 べしっ。

「いたっ」

 脳天直撃空手チョップ。
 撫でる手を止めると、ようやく顔を上げたミキがにへへと笑っていた。
「なぁによー」
「おしおき」
「えー。なんの?」
「ん? ミキを心配させた…おしおき」
 いっちゃうんだもん…。
 少し腫れた目もと。
 そっと親指で目元をぬぐうように撫でて、リカは小さく笑った。
「そっか。じゃあ…しょうがないか」
 そして、ぎゅうっとミキを抱きしめた。
「…ごめんね」
「…うん」
「怖かったよね」
「…うん」
「いるから…」
「うん…」
「ずっと…ずっといるから」
 言葉じゃなくて、帰ってきたのは小さなうなずき。
 ミキは顔を上げると、よいしょと少しだけ前に体をずらしてリカの唇にふわりと自分の唇を重ねた。
「…離れないから」
 嫌だと言っても。
 やさしくふわりと降ったキスとは裏腹に怒ったような口ぶり。
「うん」
 リカはうなずくと、
「離さないから…」
 嫌だと言っても。
 やわらかく、だけどはっきりと強い意志を持った囁きが首筋に深く顔をうずめるミキの耳を打つ。
 ぎゅっとリカのパジャマを掴んだミキの手。
 リカはまたあやすように背中を撫でながら、ぼんやりと薄闇を見つめた。

   吹き上がる炎。
   爆音。
   崩れ落ちる建物。
   真っ青に染まった青い空の下、一面に転がる瓦礫の山。
   腐臭。
   焼け焦げた人、人、人。

   飛び交う銃弾。
   砂埃の向こうで赤く光る火花。
   足元を揺らす砲弾。
   声もなく倒れる兵士。
   一人、また一人。

   耳から離れない死神の囁き。

   吐きそうなほどの緊張感。

   いくつも体に穴が開いた兵士。
   割れて顔のない遺体。
   道路にぽつんと転がった右腕。
   あそこに右足。そっちには胴体。
   夏の日差しに焼かれて生乾きの飛び出した内臓。

   人なのかわからない変色して重なり合う人の山。
   壁に刻まれた深い爪の痕。幾重にも惹かれたどす黒い血の線。

   雲を割って覗く青空の下へ。
   どこまでも高く響く鐘の音。

 ゆっくりと胸を大きく上下させてリカは暗闇に向かって気持ちを落ち着かせるように息を吐き出した。
 目を閉じてもまだ色鮮やかに流れていく光景。
 リカはミキの肩に手を置くと、そっと押し上げた。
「リカちゃん?」
 不思議そうに顔をあげてリカに促されるまま少しだけ体を起こしたミキに、リカは微笑みかけてぎゅっとミキのシャツを掴んだ。
「ねぇ、もっと…近づこっか」

 ベッドの下に散らばるシャツ、パジャマ、下着。

 直に触れ合う体と体。
 重なり合う鼓動。

 風邪を引かないようにしっかり肩まで布団をかけて、しっかり抱き合って温めあう。
 ぬくもりはどこまでもやさしくて、胸の中に渦巻いていた不安を溶かしていく。
 あの頃だって、そうしてた。
 それでも消えなくて、だから強く強く抱き合った。
 それは、結局今も変わらない。
 胸のずっと奥に深く突き刺さった記憶。そして、感触。

 …いつになったら、終わるんだろう。

 何一つ変わらない暗闇。
 カチカチと動く時計の秒針の音が淡々と響き渡る。
 いつものように眠って、起きて、仕事に行って、帰ってきて…。
 たったそれだけのことが当たり前の今。
 日はまた昇り、そして沈む。
 生きてるんだ。
 だからこそ、続く毎日。

 安心したのか、ぎゅっと抱きしめてリカの胸に顔をうずめるミキから聞こえてきた寝息。
 そっと髪を梳くように撫でて、リカも目を閉じた。

 カーテンの向こうは冬の冴え冴えとした空気の中、いくつもの星。
 澄み切った夜空は目覚めた時の高く広がる鮮やかな青い空へ。
 長い冬の夜は、それでもゆっくりと明日に向かって並ぶ星座たちを包んでいた。    

 

(2005/12/6)

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